そして、夏  〜ナミノオト〜




それが、2人の<証>




■Side A


 あれから、ケイちゃんは学校に一度も来なかった。もちろん顔も見なかった。

 臆病な私は家に電話することもできなかった。

 何を話せばいい?

 わからなくて、何もできずにいる。

 先生から渡された成績表。もうすぐ、ううん、明日から夏休みになる。

 いつの間にかじめじめした梅雨は終わっていて、私が好きだったはずの夏がやってきた。

 海、行きたかったなぁ、ケイちゃんと。



「ケイのお母さんねぇ、ケイが小学生の時に死んだんだ。それで、お父さんが高橋のお母さんと再婚して。ケイと高橋は一応姉妹ってわけ」

 宮野さんが話してくれた。

 当然、彼女は全部知っていて。

「高橋は、きっとケイのお母さんが死んでること、知らないんだろうね」

 どうしたら許してくれるかなって聞いたら、あいつは青木さんのこと怒ってない、許せないのは自分自身だろうって、そう言ってた。

 私は、どうすればいいのかな。

 どうすれば、私は自分を許せる?

 どうすれば、以前のようにケイちゃんと話ができる?

 こんな中途半端なままで…。






■Side K


 夏休みに入って何日かしてから、オレは久しぶりに学校に行った。まだ貰ってない一学期の成績表を貰うためだ。

 あんなもん、意味ねぇのにな。人間を数字に置き換えて、それで何が計れるっていうんだ。

 それでもこの世界で生きていくには必要で。

 そんな矛盾した気持ちを抱えながら、オレは職員室のドアを開けた。クーラーが効いていて、外から来ると冷気が気持ち良い。

 うちのクラスの担任は窓際の机に座っていた。

「先生」

「ああ。ほれ、成績表」

 渡された白い紙。中身を見る必要も無い。

 評定平均出したら、一体いくつになんだろ。

「お前なぁ、もうちょっと授業出ないと留年になっちまうぞ?」

「別にいいですよ」

 危機感の無いオレの返事に、担任は盛大に溜息をついた。

「進路も決まってないんだろう?」

「まあ、適当にします」

 今度は溜息も無かった。大学を受験するつもりは無い。勉強したいことが無いからだ。かといって就職する気にもなれない。

「失礼します」

 埒のあかない話を続けるのが嫌なので、早々に話を終わらせて職員室を去る。担任も、もうすでに諦めているんだろう。オレがクラスの問題児でも、具体的にトラブルを起こしていないから、多分それでいいんだと思う。

「げ…」

 こっそりのぞいてみたら、成績表は一と二ばかりだった。ほとんど授業に出ていないから仕方無いけど。出ていない割にはずいぶんと好意的な成績もちらほらある。

 本当に留年したら。そしたら学校辞めるかな。

 それほど執着は無い。

 昇降口にある自販機でオレンジジュースを買う。本当はコーヒーが飲みたかったが、学校の自販機にはブラックが入ってないので諦めた。それを手に持ったままオレは階段を上がる。四階分の高さを昇ると、さすがに夏だけあって額から汗が噴き出す。

「あっついなぁ…」

 フェンスにもたれかかると、校庭で練習をしているサッカー部のやつらが見えた。

 暑いのにご苦労なこった。

 ジュースのパックにストローを突き刺す。それを通って喉に流れ込む人工甘味料の甘さが、こんな暑い日だけは心地良かった。

「あー、やっぱケイだ。こんなとこでなにやってんのさ」

「宮野?」

 人に会いたくないんでわざわざ夏休みになってから学校に来たっていうのに、なんでまたコイツに会うんだよ。ったく、ツイてねぇ。

「あ、成績表?見せて見せて」

「お、あ、コラ」

 オレの成績表はあっさりと宮野に奪われた。

「うわぁお、見事に一と二ばっか。あんた、これで卒業できんの?」

「うっせぇな、返せよ」

「あ、でも美術は五じゃん。さっすがあ」

「かーえーせっての」

 力任せに奪い返す。他人の成績見て、何が楽しいんだよ。

 細かくたたんでポケットの中に突っ込む。

「で、お前は何してんだ?」

「えー、秘密」

 おおかた、そこで部活をしているサッカー部の取材か何かだろう。部活の、というより選手個人の。最近知ったことだが、コイツ、個人写真をとってそれを売りさばいているらしい。

 たのむからやめてくれ。

「でね、あんたにって預かってるモノがあるんだけど」

「あぁ?」

 渡されたのは一冊のスケッチブックだった。どこでも売っているようなA3サイズの、変哲も無いスケッチブックだ。

「こんなもん、一体誰が…」

「青木さんだよ」

 青木が?一体何で?

 別に宮野に預けなくったって、新学期にだって直接オレに渡せばいいじゃないか。

「自分じゃ渡せないかもしれないからって」

「なんでわざわざお前に」

「聞いてないの?青木さん、転校したんだよ」

 …転、校?

「お父さんと一緒に暮らすんだってさ。こんどのはネタじゃないよ。本人から聞いたんだから」

「…えらく、急だな」

 言葉はそれしかなかった。それだけ言うのが精一杯だったのかもしれない。

 ぱらぱらとページをめくってみる。真っ白な何も描き込まれていないページばかりが続き、そして最後の一枚。

「……」

「何?どうかしたの?」

 突然黙りこくったオレに、宮野が声をかける。

「…アイツの住所は?知ってるんだろ」

「え、まあ。でも今更行ったって…」

「いいから寄越せ!」

 宮野の洋服をつかんで引き寄せる。腕には閉じたスケッチブックを持ったまま。

「わかったよ。たしかこの手帳に…」

「貸せ!」

 宮野の手から緑色の手帳を奪い取って、オレは身をひるがえす。

「ちょっと!ちゃんと返しなさいよ!」

「わかってるって。これ、お礼!」

 オレンジジュースを放る。

「飲みかけじゃない!」

 その叫びはもう耳に届いていない。階段を一段飛ばしで駆け下り、下駄箱で靴を履き替えた。

 校庭のわきを走りながら、自転車の鍵を探す。自分の自転車を引っ張り出してサドルにまたがると、宮野から拝借した手帳を開いた。細かい字で様々な情報が書き込まれたその中から、青木のことが書かれたページを探し出す。

「…そんなに遠くないな」

 そこに至るまでのルートを大雑把に頭の中に思い浮かべて、ペダルに足をかけた。力いっぱいそれをこいで、ぐんぐん風を切って進んでいく。熱気の塊が顔にぶつかった。

 オレは、まだ何も言ってない。

 青木に何も伝えていない。

 あの日、最悪な形でわかれてから、何一つ告げていない。

「だから、友達でいてね」

 そう言ったアイツの顔をまだ覚えている。いつも何が嬉しいんだかわからない顔をしていて、仏頂面のオレとは対照的だ。

 お前はオレが何を言ってもオレを否定しなかった。「わがままですね」って言っても、その裏には嫌悪も何も無かった。

 どうしてお前はあんなに優しいんだろう。

 どうして優しくなれるんだろう。

 オレとお前は似ているのか?少なくとも境遇だけは。

 オレも、優しくなれるのかなぁ?

 お前なら教えてくれそうな気がする。

 なぁ…、お前はオレが求めていたものに気付いていたんだろう?

 汗で張り付いた前髪を持ち上げる。それでもペダルをこぐ足は休めない。

 十五分ほどペダルをこぎつづけて、ようやく青木の家にたどり着いた。正確に言えば青木のおじいさんの家か。手帳の住所と照らし合わせてみる。

 門の脇に自転車を止めて、呼び鈴を押そうと思って、そして止まった。

 今更、何をしに来たんだろう。

 今になって何ができるんだろう。

 もう転校してしまったというのに、ここに来て何ができると思っていたんだろう。

 何も考えずに体が動いていた。こんなこと、初めてだ。

「……ケイちゃん?」

「青木…」

 突然背後からかけられた声に、ゆっくりと振り返る。そこにいたのは紛れも無く青木だった。

「…転校、したんじゃないのか?」

「でも引越しは八月の半ばなんです」

 笑う青木。

 ハメられた…、宮野に。手帳を握りつぶす。

 確かに、「転校した」とは言ってたが「引っ越した」とは一言も口にしていない。

 あのやろう…。

「ケイちゃん?」

「…海、行こうぜ」

 オレも笑った。どうやら熱さで頭がイカレちまったらしい。







「うわ、わわっ、ケイちゃん!スピード出しすぎっ!もっとゆっくり!」

「まだまだぁ!」

 後ろに青木を乗せて、自転車は坂道を転がり落ちる。

「ここでスピード出さないと次の坂が登れないんだよっ!」

 坂道を越えると、空よりもずっと青い海が見えてきた。

 あれだけお前が行きたがってた海が。

 砂浜に自転車を倒す。青木が駆け出す。お前は犬か? そういえば似てるかもな。

「ケイちゃーん、気持ちいいですよー」

 もう靴を脱いで海に入ってやがる。

「今行く!」

 なにがそんなに楽しいんだか。

「楽しいですね」

「そうかぁ?」

「ケイちゃんだって楽しそうですよ?」

 オレが、楽しんでる?

「…とりゃっ!」

「きゃあっ!」

 青木に向かって、足で水をかける。

「あははっ、足癖悪い!」

 おかえしに、と青木も負けずにやり返す。

「今に始まったことじゃねーよ!」

 そんなことを叫びながら、ひとしきり海水をかけ合ってびしょぬれになる。

 笑い声。

 海が煌めいて目に眩しい。

 まだ、やっていける。そんな気がした。

「ねぇ見て、カニだよー」

 そんなちっちゃなカニは食えないぞ。

「そろそろ上がれよ。風邪ひくぞ」

「わかったー」

 お互いに海から上がって、オレはタオルを取りに自転車のところまで戻った。

「一応、身体拭いておけよ」

 そう言って青木に向かってタオルを投げる。青木がちゃんとキャッチしたのを見てから、オレも自分のタオルを探す。

 ふと目に入ったスケッチブック。

 真新しい表紙と、たった一枚の絵。

「ケイちゃん?」

「これ…」

 スケッチブックを手にとって見せた。

「…下手な絵でしょ?」

 そう言って、青木は恥ずかしそうに笑った。

 一番最後のページに描かれた絵。それは季節はずれの桜。デッサンも遠近法もなっちゃいない、ヘタクソな絵だった。

「一生懸命描いたんですよ?想像だけど…」

 青木は、あの校庭の桜の木が咲いているのを見たことが無いはずだ。青木が転校してきた時には、すでに桜の時期は過ぎていたから。

「私のこと、許してくれますか?」

 もちろん。最初からお前は悪くないんだよ。

「下手な絵に免じて、な」

 ひどいなぁ、ケイちゃんは、と笑う。

 まあな、とオレも笑う。

「…話したっけ?オレの母親、画家だったって」

「いいえ」

 そうだよな、そんな余裕無かったな。

「オレは母さんの絵が好きだった…。無名の画家だったけど、それでも母さんみたいな画家になりたいって思ってた」

 青木が側にいるのがわかる。

「なあ…、オレ、描くよ。桜」

 二人の約束。

「いつまでかかるかわかんないけど、必ず。だからそれまで待っててくれよ」

 返事の代わりに青木が差し出したのは右手の小指。オレはそれに無言で自分の小指をかけた。

「ゆーびきーりげんまん嘘ついたら針千本飲―ます、ゆびきった!」

 二人の指が離れる。

 二人はこれから遠く離れる。

 それでも、二人の距離は近くなる。

 それが夏の約束。





 春の訪れが変わった

 波の音を聞きながら

 そして、夏が始まる



 桜の元で……



 THE END