#09 愛 〜相手を慕う情〜


あの日から、夢を見る。
夢の中ではあの日と同じように雪が降っていた。
静謐な白い世界で、私は遠ざかる後ろ姿を眺めて立ち尽くしている。
音も熱も無い世界。
けして現実ではないというのに。

胸を切り裂く甘いトゲだけが残るくらいなら、何もかも忘れ去ってしまいたい。
何も感じない心になってしまえばいい。

そう思っているのに。
何故。
朝、目覚めるたびに私の目からは涙が零れ落ちていくのだろう。
泣くことなんて、とっくに忘れてしまったと思っていた。
それを思い出させたのは貴方なのに。
どうして、貴方は居ないの?




携帯電話の音が五月蝿かったから電源をOFFにした。
そうしたら今度は家の電話が鳴り響くから、思い切って電話線を引っこ抜いた。
どうして世界は私を1人にしてくれないんだろう。
手を伸ばして届くこの場所に、私はただ独りだというのに。

私とセイの間には何も無かった。
形あるモノも、そうでないモノも。
二人の関係を問われれば、私も彼も言葉に詰まってしまったに決まっている。
明確なモノが何も無いから、だから私は何かを始めたくて。
けれどそれすらも許されないのだろうか。
「貴方が好き」
ただそれだけのことなのに、私はその気持ちの欠片さえ伝えていない。

全て、諦めればいい。
私は人魚姫じゃないから、海の泡となって美しく消えることなんて出来やしない。
みっともなく縋り付いて、泣き叫べば良かったの?
そんなこと、私に出来るはずがなかった。
まして、忘れることなんて。
だから、心の一番深い場所に埋めて、閉じ込めて、何も感じないようにしてしまおう。
これ以上、誰も困らせたくない。
私が我慢すればいいだけだから。

もう、涙は流さない。




高校時代の友人との約束があったので、久しぶりに外に出た。
あれから一週間。
私は家の中にこもりっぱなしだったので、久々の冬の空気がえらく冷たく感じられる。

混んだ電車に揺られて都心に出る。
約束の時間きっかりに現れた友人。
今日の予定は映画に昼食、そしてショッピング。
けれど貧血を起こした私は映画を見終わった段階でギブ・アップ。
映画がどんな内容だったのか、ちっとも覚えていない。

(どこか、遠い所に行きたい……)

帰りの電車の中で一人になって考えたことは、昔にもよく考えたことだった。




地元の駅に着いたのは昼をかなり回った時間。
でも、お腹は全然空いてない。
スーパーかコンビニで何か買って帰ろうと思っていたけれど、結局何処にも寄らずに家に帰った。

(でも、あとで買い物行かなきゃなぁ)

そろそろ冷蔵庫の中は空っぽだということを、家のドアの前で思い出した。
まぁ、いいかと、ドアを開ける。
鍵は、開いていた。

(鍵、閉め忘れたっけ……)

もはや、思考回路が正常じゃない。
そのくせ頭のどこかでは「何か盗られてたら警察に連絡しなきゃ」だとか、「カード会社と銀行のが先かも」だとか、ズレたことを考えていた。
そのままドアを開ける。
もしかしたら中に誰か居るかもなんて、考えもしなかった。

傷のついた大理石の玄関には、ベージュのパンプスがきちんと並べて置いてあった。

(こんな靴、持ってないよね……)

奥を覗くとリビングの明かりがついてる。
一体どうしたものかと処理能力の遅い頭を働かせていると、パタパタとあわただしい足音をさせながら一人の女性が現れた。
見覚えのある人影、どころではない。

「まゆちゃん……!!」

「ママ?」

ボケっと玄関に突っ立ったままの私を、ママは両腕でぎゅっと抱きしめる。
その腕は温かい。
いつもママが使っている香水が、今日はしなかった。

「もう、何処に行ってたの!! 家の電話も携帯も繋がらないし。もし、まゆちゃんに何かあったらって、凄く心配したのよ!?」

そこで私は引っこ抜いたままになっている電話線を思い出した。
携帯の方はというと、持ち歩いてはいるものの一度電源を切った後に入れ直した記憶が無い。
まさしく、携帯していただけ。

「……ごめんなさい」

「本当に良かった。まゆちゃんが無事で」

ちっとも無事じゃないよ。
今の私は心も身体もボロボロだもの。
でも、そんなことを言ってこれ以上ママを心配させるのは忍びない。

「ママ、それは大袈裟でしょ」

「大袈裟なもんですか。悪い男の人に騙されちゃったらどうするの!!」

何故か、ドキッとした。
悪いことをしたわけじゃないのに。
セイは、悪い人じゃない。
私が勝手に好きになって、勝手に傷ついているだけだから。

「それより、少し痩せたんじゃないの?」

ようやく解放してくれたと思ったら、今度は私のことを頭のてっぺんからつま先までをじっくりと眺めてくる。

「そうかな?」

あれからあまり食事をしていないことを思い出して、私は誤魔化すようにブーツを脱いだ。
玄関に置いてある大きな姿見に自分の姿が映っている。
あらためて見てみると、言われた通り少し痩せたかもしれない。

「お昼はもう食べたの?」

「ううん、まだ。でもお腹空いてない」

寝室のドアを開けて、オフホワイトのコートをクローゼットの中のハンガーにかける。
ママは部屋の外で私のことを見ていた。
その視線から逃げるように、私はベッドに倒れこんだ。

「ねぇ、ママ。今日ってお父さんは帰ってくるの?」

「いいえ。先週からアメリカに出張中で、確か帰ってくるのは明後日よ」

「そっか。久しぶりに、そっちに帰ろうかなぁ」

枕に顔を埋めながら呟いた言葉に、ママはびっくりしたみたいだった。

「珍しい。ママがあれだけ言っても『嫌だ』って聞く耳持たなかったのに」

「いいでしょ、別に。久しぶりにママの料理が食べたい。それに、もうすぐお母さんの命日だし……」

そう言ったら、ママは少しだけ淋しそうな顔をした。

桜が大好きだったお母さんは、まだ寒い三月の始めに逝った。
桜が咲く前、丁度桃の季節だった。




一度しまったコートを再び引っ張り出して、急き立てられるようにマンションを出る。
鍵を確認。
ちゃんと電話線を入れて、留守番電話をセットするのも忘れなかった。

大通りに出たら、たいして待つことなくすぐにタクシーを拾えた。
懐かしの我が家に向かう途中、ママは窓の外を見ながら独り言をもらした。

「今夜は雪になりそうねぇ……」

それが独り言だとわかったから何も返事はしなかったけれど、それにつられてなんとなく私も空を見上げてみた。
どんよりと曇った重い灰色の空で、この寒さだと夜には間違いなく雪になるだろう。
今年の冬は雪が多い。
車窓の向こうで、冬の街並はどんどん後ろへと流れていった。




その夜は、久しぶりに何の夢も見なかった。
夢は誰でも見るもので、ただそれを覚えていないだけだって聞いたことはある。
猫でも夢は見るって言うし。
とにかく、朝目覚めた時には何も覚えていなかった。

目を閉じて眠っている間、私の耳には何か柔らかい音が届いていた。
ふわふわと。
次から次へと零れてくる音は、遠い昔に聞いたことのある、どこか懐かしい音楽だった。

翌朝、目覚めたのは十時近く。
もう朝御飯というよりもブランチな時間だった。
家の中にはママと住み込みのお手伝いさんが居て、私はママの用意してくれた朝食をテレビを見ながら食べた。
その間、ママはテーブルの向かいの席に座っていて、コーヒーを飲みながら私が御飯を食べるのをずっと見ていた。
ふと感じたことだけど、ママは私があまり食事をしていなかったことに気付いていたんじゃないだろうか。
だからママは、やっぱりママなんだって思った。




+++++




二階の廊下の突き当たりの窓から、細長く切り取られた庭を眺める。
午後からちらちらと小雪が舞い始めて、暖房の届かない廊下の隅は寒かった。
でも、そこから見える景色は好き。
小さな箱庭は、その瞬間は確かに私だけのモノだったから。

「まゆちゃん、そんな所に居て寒くないの?」

階段からママが顔を覗かせる。
手には私が好きなケーキ屋の箱があった。

「チョコレートケーキは?」

そう尋ねると、ママは笑って「あるわよ」と答えた。

「お茶にしましょう。もう少ししたら降りていらっしゃいな」

軽快な足音で階段を下っていき、しばらくしてリビングのドアを閉める音がした。
そうしたらまた音が無くなって。
段々と世界を白く染めていくこの雪の音さえ、私の耳に届くような気がした。




リビングのドアを開けると、部屋の中からはコーヒーの良い香りがする。

「本日のコーヒーは何でしょう」

「ジャマイカ産のブルーマウンテン」

「大正解」

「ママっていつもそればっかりじゃない」

アイランドタイプのキッチンでコーヒーを入れるママの姿は中々様になっている。
そういえば、若い頃に喫茶店で働いていたって聞いた気がする。

「まゆちゃん。そこのケーキ、お皿に並べてくれる?」

「はーい」

食器棚から広皿を取り出して、そこに箱からケーキを出して並べていく。
ショートケーキにチョコレートケーキ、タルトにアップルパイにシュークリーム。
どんどん出てくる。
はたして、こんなに食べきれるんだろうか。
いや、ママは細いけど結構食べるから大丈夫なのかもしれない。

「チョコレートケーキは私がキープね。ママは?」

「そうね、ストロベリータルトにしようかしら」

「りょうかーい」

お皿の端の方にチョコレートケーキとストロベリータルトをよけて置く。
全部並べてみると、やっぱり二人で食べる量じゃない。

「ママ、祐希は?」

小学校って、三時くらいに終わるんじゃなかったっけ。
一番食べそうな、それなのにこの時間になっても帰ってこない弟のことをママに尋ねる。
祐希は十歳年下の私の弟。
やんちゃ坊主というか、まぁ、可愛い弟だ。

「お友達の家に寄ってくるんですって。一度帰ってくればいいのに」

「地元に友達居ていいじゃない」

私は小学校から私立に通っていたから、この辺りに同年代の友人が居ない。
それに比べれば、良いことだと思う。

「でも、お菓子とか持たせられないでしょう」

「あ、そ。男の子同士なんだし、あんまり気を使わなくてもいいんじゃないの」

コーヒーカップを二つお盆に載せてテーブルにやってくる。
それを私の前と自分の席に置いて、ママは椅子を引いて腰をおろした。

「それより今夜はどうするの?お夕飯はこっちで食べていくんでしょう?」

タルトのてっぺんのイチゴにフォークをさすママ。
私は金箔のついたチョコレートの飾りを最初に取って、口の中に放り込んだ。

「うん。夕飯食べて、それから帰る」

「なら少し早めにお夕飯にしましょうね」

「でも、こんなにケーキ食べたら夕飯お腹に入らないって」

コーヒーカップを口につける。
ブルーマウンテンの酸味と苦味はコーヒーの中でも最高。
そして、ママの入れてくれるコーヒーは美味しい。
私はまだママほど上手くコーヒーを入れられない。

「それもそうねぇ」

「普通の時間でいいよ。終電までに帰ればいいんだし」

そう自分で言って、私はいつも終電間際に帰ってくる彼のことを思い出した。
もし今夜、終電を使ったら彼と会えるだろうか。
なんて、そんな都合の良いことが起こるはずがない。
余計な期待は自分が傷付くだけだって、私が一番良く知っている。

「雪、本当に良く降るね……」

私の言葉にママは軽く相槌を打ち、そして私と同じように窓の外の雪を眺めていた。




+++++




星も月も見えない暗い空からは、真っ白な雪が降ったり止んだりしていた。
そんな中、こうしてベンチに座っているだけの僕は、ただの馬鹿以外の何物でもない。
そもそもここに居て、それで彼女がやってくるという保証なんてどこにもない。
はっきり言って効率の悪いことをしているということは、僕自身も自覚している。
彼女と話がしたいのなら、携帯にでも連絡すれば良いだけのことだ。
それができない僕は、やっぱり臆病者でしかなかった。

「……終電か」

時計を見上げる。
仕事帰りの僕がよく目にする針の位置だ。
駅の改札からは一時的に多くの人が吐き出される。
そして、それもすぐにまばらになっていった。

(もう、帰ろう……)

腰を上げる。
肩と頭の上に積もった雪が、地面に落ちた。

その時。

「…………まゆさん」

青い傘を広げた彼女がこちらを見つめていた。




「その、偶然ですね……」

頭と肩を真っ白にした彼は、私に向かってそう言った。

そんな格好でそんなことを言っても、説得力があるはずないじゃない。

「……今晩は」

たったそれだけの言葉なのに、胸が詰まった時のように何故か上手く言えなかった。

今年は雪が多いね。
こんなところで何をしてるの?
傘もささないで、寒くない?

言おうと思った言葉が、浮き上がっては声になる前に消えていく。
まるで、シャボン玉のように。

私とは、もう会えないんじゃなかったの?

それを口にする勇気は無い。

いつからここに居たの?
もしかして、私を待っていた?

どうしてそんなことを考えられるだろう。
私は、そこまで自惚れられない。
けれど。
セイが私のことを見ている。
セイも何を言って良いのかわからないでいるのかもしれない。

(駄目……泣きそう……)

何故だか目頭が熱くなってくる。
いつから私はこんなに涙もろくなったのだろう。

「ごめんなさい。さよなら」

怖くて。
私は逃げるように彼の横をすり抜けた。




「……っ、待ってください!!」

脇をすり抜けるまゆさんの腕を、僕は思わずつかんでいた。
彼女が持っていた傘がゆっくりと地面に落ちる。
一瞬、止まった世界。
その細い肩にも、僕と同じように白い雪がうっすらと積もり始めた。

「……離して」

か細い声で懇願される。
けれど今、この手を離してしまったら。
永遠に彼女が遠い所に行ってしまうような気がした。

そんなの、嫌だ。

「僕には貴女が必要なんです」

「……そんなの、嘘よ」

つかんだ腕に力を込める。
どうすればまゆさんに僕の気持ちをわかってもらえるのだろう。
人を想うということ。
その苦しさも、その意味さえも僕は今まで知らなかった。
教えてくれたのは、彼女だ。

「嘘じゃない、貴女が好きなんだ……」

嗚咽を噛み殺し、俯いた彼女の瞳から涙が落ちるのが見えた。
僕はその涙をぬぐう。
それはまるで、一片の氷が手の中で溶けていくかのよう。

「……セイの手、冷たい」

まゆさんが呟く。
気付いて、彼女の頬に当てた手を僕は慌てて離そうとした。
けれどその右手に、まゆさんはそっと自分の暖かい左手を添える。

「前と、逆ね」

僕の手は雪のせいで冷たく冷え切っていて。
それは、僕達が初めて言葉を交わしたあの夜、僕の頬に触れた彼女の手と同じだった。

包み込むようにまゆさんは僕の手を取る。
そしてその指先に自分の唇を押し当てた。
その間にも彼女の目からは涙が溢れ続けていて。

純白の雪の中で繰り返されるその行為は、何者にも侵し難い、神聖な儀式のようであった。


「……私の傍に居てくれるの?」


と、問う彼女の言葉は甘く耳朶に触れ。


「貴女がそう望む限り、いつまでも」


それは永久の誓いにも似ていて。




彼女の唇に落としたキスは、僕が示せる唯一の証だった。




BGM 「Sign」 BY 鬼束ちひろ