#08 間 〜2つのモノに挟まれた範囲〜


あの日、夕方になって静かに雨が降り始めた。

ビルとビルの間、まるで取り残されたような空間に僕は男を誘い出した。
雨の中でしばらく街を連れ回してみたが、その尾行は素人技ではなく、さらに言えば普通の人間に真似のできるレベルでもなかった。
特に同業者から恨みを買うような真似をした覚えは無いが、この世界では何が起きても不思議ではない。
依頼次第で昨日の友が今日の敵になる。

「……そろそろ用件を伺いましょうか。生憎、私はあまり暇ではないんですよ」

僕は闇の中に向かって声をかける。
ゆらりとそこから姿を見せたのは、灰色のコートを着た中肉中背の取り立てて述べることの無いような平凡な中年男性だった。
日に焼けていない顔は、日がな一日デスクワークなサラリーマンを思わせたが。

(夜にしか外出しない人間か……)

僕はそう直感した。

「これは失礼しました。私は秋川研究所で助手をしております、坂下と申します」

この場において名刺を差し出しそうな物言い。
物腰は柔らかく丁寧だが、その雰囲気はどこか不遜だった。

(この男は……)

匂いがした。

血の匂いだとか、そんな単純なものではない。
僕の記憶の底、DNAを揺さぶられるような、懐かしくも吐き気を覚える、そんな匂いが。

「その坂下さんがこの私に何の用事でしょうか」

ぎりっ、と僕の左手が軋んだ。

「……意外と気が短くていらっしゃる」

坂下と名乗った男は、僕に目をやって苦笑した。

「単刀直入に申し上げましょう。当研究所の所長が貴方にお会いしたいそうです」

一瞬、世界が歪んだようだった。
この男は今、何を言った?

「……お断りします」

予想外の言葉ではなかった。
彼の姿を見た時に、それは既に予想されていた。
いや、もっと昔に訪れていてもおかしくなかったのかもしれない、この瞬間は。

「まさか。十年ぶりの父子のご対面でしょうに。所長も楽しみにされていますよ」

「……実験動物を取り戻したいだけでしょう、あの人は」

眩暈がする。
薄く笑う男の向こう側に、別の男の顔が見え隠れした。
何度、何回殺したとしても、おそらく殺し足りないであろう男の顔が。

「返答は急がないとのことでした。ですが、今回はこちらも本気だということはご了承ください」

何時の間にか、僕へと真っ直ぐに銃口は向けられていた。
けれどその引き金が引かれるその前に、彼の右腕ごと銃は地面に落ちる。

はずだった。

「……っ!!」

これまで数多くの命を屠ってきたワイヤーは、彼のコートの袖を切り裂いただけで、右腕をそのままに絡み付いていた。
同時に身体の中心に感じる鈍い衝撃。
銃口からは白い硝煙が立ち上っていた。

「……義手とは、ね」

濡れた地面にポタポタと血が落ちて、赤い血痕を描き出した。

「本物は8年前に無くしてしまいまして」

穏やかな言葉の裏には確かな殺気が隠されている。
剥き出しになった彼の腕は、微かな明かりを受けて鉄色の光沢を放っていた。

「こちらもそれなりの用意はしておかないと殺されかねない。特別製ですから、貴方のワイヤーでも切れませんよ」

再び、銃声。
今度は肩に衝撃があって、僕は彼の腕と繋がったままになっている左手のワイヤーを地面に落とした。

「顔色が宜しくないですね。さすがに出血はどうしようもなりませんか」

男の指摘は、まったくもってその通りだった。
多量の出血をした身体は冷たい雨に打たれて急速に熱を失いつつある。
傷口を見なくてもわかる。
肩と脇腹の両方ともが綺麗に撃ち抜かれた、いわゆる貫通創だ。
忌まわしい体質のおかげで出血は徐々に緩やかになっていくが、失った血液はそう簡単に戻ってはこない。

「申し訳ありませんが、もう少しの間動けないままでいていただきます」

三度、僕に照準を合わせる。
僕はそれに合わせて口元を歪めた。
力を込めるのは右手。

「生きたまま我々の所に帰ってきていただかないといけませんので、お許し下さい」

「……思い出しましたよ、貴方のコト」

僕の突然の言葉に、彼は引き金を絞るのを一瞬躊躇った。
それが命取りになったことを、今際の刻みに彼自身理解できただろうか。

心の何処か遠く、鐘が鳴り響く。

「貴方も、僕で『実験』していた一人でしたね」

薄暗がりにきらめくのは白銀の閃光。
一瞬、雨音が消えた。
右手は、普段は使わない。
いわゆる奥の手というものを持たずにいられるほど、僕は自惚れていないつもりだ。

音が戻ってきた時には、驚愕に満ちた男の目が地上から僕を見上げていた。




それからどれ位の時間が過ぎただろう。
雨はみぞれ、そして雪に変わっていた。

僕は壁にもたれて地面に座り込んでいて、その少し先には先程まで良くしゃべっていた男の死体が転がっている。
誰か人に見られたら言い訳できない状況。
だが、何故か僕はその場から動くことが出来なかった。

どうやら出血は止まったらしい。
けれど銃創はさすがに痛い。
ちょっとでも身体を動かすと鈍い痛みが身体を走る。

そして、僕は意を決して携帯を取り出した。

「…………」

彼女が電話口に出るまでの僅かな時間、僕はこれから告げるべき言葉を思って目を閉じた。

僕は、恐れている。
……何を?
これから起こるであろう全ての事象を。

『……もしもし』

まゆさんの声は、少し震えていた。
今、何処に居るのだろう。
彼女との約束の時間はとうに過ぎていた。

「まゆさん……連絡が遅くなってすみません。今日は、会えなくなってしまって……」

『ううん、いいの。あの、明日は?』

その声は空元気に似ていて、無理にでも明るくしようと努めているのがありありとわかった。
酷いことをしようとしている。
その自覚は僕にもある。

「……すみません。明日も会えません」

『じゃあ、いつなら? 私、待つから……』

答えは、もう僕の中で出ている。




…………ねぇ、私のこと、嫌い?

かすれた声、だがはっきりと彼女はそう言った。
僕の手の中で白い雪は赤い水に変わる。
できるものならば。
今すぐにでも彼女の元に赴いて、この腕で彼女を抱きしめたい。
けれど、それはもう叶わない。

電話は、彼女が切った。
しばらく経って、再びかけ直されることを期待している自分に気付いて、笑った。

(……全部終わったっていうのに……僕は馬鹿か?)

携帯にべっとりと付着した血液をぬぐう。
壁にもたれた身体を起こしたら、既に治り始めていた傷口が再び開いて痛んだ。
その間にも雪は静かに僕の視界を埋め尽くしていく。

僕と彼女は終わってなどいない。
始まってすら、いなかったのだから。

つまりは、僕の手は他人の血に汚れ切っていて、いくらそれに気付かない振りを続けようとも、もはやこの腕は彼女を抱くのに相応しくないと、そういうことだ。




+++++




最近、わざと駅までの道を変えている。
彼女の生活圏を遠ざけて、彼女に会わないようにしている。
その姿も見てはいない。

ここ数日、東京は酷く寒い日が続いていた。
立春はとうに過ぎ雨水も後にしたというのに、春はまだ遠かった。
こんな日でもまゆさんは夜空を見上げているのだろうか。

あの雪の日の彼女の言葉が、今でも耳について離れない。
泣き出しそうに震えながら雪の中で立ち尽くすまゆさんの姿が目の前に浮かびそうになって、僕は慌ててかぶりを振った。

僕の足は一度何かに迷うように止まり、そしてまた動き出す。
だから今、彼女に会うことは出来ない。
彼女に会ったら僕は何を口走ってしまうかわからない。
そうすれば今度こそ全てが終わってしまう。
これ以上、彼女を僕の事情に巻き込むわけにはいかない。
それが僕の彼女の為にできるたった一つのことだから。

けれどあの日からチリチリと疼痛を訴えつづける僕の心。
まるで酸欠状態のように何かを求め続けている。
それが何かなんてことは、僕はとっくに知っている。




ごった返すホームの上で、突然鳴った電話を取った。
ところが向こう側にいるはずの相手は黙ったまま。
よもやイタズラ電話ではあるまい。

「……戒人?」

躊躇うような気配を感じ、しばらくしてから戒人の声が聞こえた。

『……ドクター、今、何してんの?』

自分でも何をしているかわからない、と答えたらきっと彼は怒るだろう。

「つい昨日までは白衣のお兄さんと遊んでましたが」

遊びにしては少々度が過ぎたか。
苦笑交じりの僕の言葉に戒人は明らかに苛立ったようだった。

『自分で何言ってるか、わかってる?』

「えぇ。そうだ、今夜ヒマですか? たまには飲みに行きません?」

彼にしては珍しく逡巡があって。

『ヤバイのは御免だよ』

そして、すげなく一方的に電話は切られた。

(一体、何の用事だったんですかね……)

彼の思惑は読めなかったが、別にそれが今現在問題になるとも思えなかったので放っておくことにした。
丁度ホームに電車が入ってくるところだったので、そちらに注意が向いただけかもしれないが。

そして、その時。
電車がスピードを落として滑り込む瞬間。
その車体で視界が埋まる直前のこと。

反対側のホームに、僕は「彼女」を見つけた。

知らず駆け出しそうになった。
けれど二人の間には大きな壁がそびえていて、僕は為す術も無く立ち尽くした。
人の流れの真ん中に取り残された僕は、電車が行ってしまった後でもそのままの場所でずっと動けなかった。

捜してみても、彼女の姿なんてどこにもありはしなかった。
もしかしたら、ただの見間違いで、他人の空似だったという可能性もある。
その方がどれだけ有難いか。
けれど、あれがまゆさん本人だったという確信が僕にはあった。

何故。
僕は彼女を探しているのだろう。
こんな人込みの中で彼女の姿を見つけてしまったのだろう。

何故……。

今になって、こんなにも彼女の温もりが懐かしいのか。




その夜、夢とわかる夢を見た。

情景は柔らかい白と黒のコントラストで構成されていた。
ひらひらと、音も無く純白の風花が空を滑る。
掴んでみてもそれは手のひらの中で消えるだけだった。
あるべきはずの冷たさも、熱すらも無い。
音の無い世界。
夢だと、自分でわかる夢だった。

ふと、燐光を放つ桜の花びらが舞っているのが見えた。
何時の間にか、雪は白い花びらに変わっていた。
風に乗って何処から流れてくるかも知れぬそれを追って、僕はゆっくりと歩き出す。
その僕の行く先には、彼女の後ろ姿があった。

「……まゆさん」

名を呼ぶが、彼女は振り返ることもなく。

「まゆさん」

黒い髪と白いワンピースが変わらぬ場所で揺れ続けている。

「まゆさん!!」

腕を掴んだ。
それは桜の枝だった。

白い月だけが僕を見ている。
辿り着いた桜の下で僕の瞳から涙に似た何かが溢れ出した。

狂い咲きの、満開の桜の下で。




+++++




夕方、遠回りをして駅までの道を急ぐ。
矛盾している行動だが、思ってみれば最近の僕の全てが矛盾しっぱなしだ。
深い意味も無く蹴飛ばした小石は、跳ね返って変な方向に転がっていった。
駅から自宅に戻る人の流れを逆流している僕は、行く先もわからずにただ一人でもがいているだけだという気がした。
この場所で、僕はなんて小さな存在なんだろう。

駅に着いて、改札をくぐるわけでもなく、小さな駅前広場にあるベンチに腰を下ろした。
ここからだと改札を通って出て来る人が良く見える。
昼間なら待ち合わせをしているらしい人影がちらほら見られるが、日も落ちた冬の夕方にこんな所に座っているのは僕だけだった。

僕は期待している。
諦めながら、こうして彼女を待っている。
伝えたいことがある。
僕が一生涯「後悔」という二文字を背負う前に。

「情けないな……」

ポツリと呟くと、白い息がこぼれた。

僕は一人でも生きていけると思っていた。
だけど現実はどうだ。
そんなのは自分勝手で傲慢な思い上がりでしかなかった。
彼女を、まゆさんを失っただけで僕は何処へ進めば良いのかわからなくなって、此処に独りで取り残されている。

人は一人でも生きていけるなんて、嘘だ。
少なくとも僕には無理なんだ。
この世界には生きていくのに必要なモノと不必要なモノがある。

僕にとっては彼女が「必要なモノ」だったんだ。




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