#07 挨 〜身動きできないほど近寄る〜


「えっと、今日会える?」

昼頃、まゆさんから電話があった。
今までの数少ない電話は全て彼女から。
僕はまだ登録したメモリを呼び出す口実すら見つけられていない。

「忙しいなら今日じゃなくて明日でもいいんだけど……無理そう?」

「いえ、夕方の六時位で良ければ大丈夫ですが」

「うん。じゃあ、その時間に。この前のカフェで待ってるから」

今なら、彼女が何を思ってその場所を選んだのか良くわかる。




世間一般から見れば少し遅めの朝食を摂りながら新聞を開いたら、隅の方にこの前僕が殺した女性に関する記事が載っていた。
なんでも彼女は某暴力団幹部の愛人だったそうで、どうやら依頼人もそっち方面の人間だったらしい。
記事には組同士の抗争の犠牲かと書かれていたが、おそらくは抗争の口実を作るための捨て駒だったのではないかと僕は勝手に思う。
それは別に構わない。
依頼人が何を考えているかなど、僕の興味の範疇ではない。
似たような話は何処にでも転がっているし、その一端を担っているのは僕のような裏社会の人間であったりするのだから。

使い終わった食器を流しに運ぶ。
今日は知人と会う約束があったが――その彼も僕のような職業の人間で――出かけるまでに時間があったので僕は部屋の掃除を始めた。
埃が溜まっているのはあまり好きではない。
別にハウスダストに弱いわけではないが。

まゆさんから電話があったのは、ちょうど掃除機をかけ終わった時だった。

考えてみたら、彼女と外で待ち合わせをするのは初めてで。
それが意味することをもっと深く考えてみるべきだったのかもしれないが、その時の僕は、先約の彼が持ってくる「物」と、僕が彼に渡すべき「物」のことで頭が一杯だった。




+++++




十分前に「彼」との待ち合わせ場所の喫茶店に着いた。
たいてい僕は約束よりも十分早くその場所に着くように心がけている。
他人を待たせてはいけないと言ったのは誰だったのか。
記憶は定かではないが、この習慣は僕から離れようとしない。

店のドアを開ける。
落ち着いた音楽の流れるこの店は「彼」の趣味なのだろうか。
穏やかな雰囲気は悪くない。

今日、此処で受け取るのは、「早瀬まゆ」という一人の人間の身上。
彼女の二十年かそこらの、けして長いとは言えない人生の断片。

あの夜にまゆさんと実際に言葉を交わす前から、僕は彼女のことを知っていた。
毎夜、ベランダに出ている女性は珍しい。
そして偶然にもそのベランダが僕のよく通る道に面していたという、ただそれだけのこと。
彼女は空を見上げていたから僕の事なんか見てはいなかっただろうが、僕はその光景を日常の奇異な一部として捕らえていた。
けれどそれは風景の一部のようなもので、それらを構成する彼女自身に対する興味など欠片も無かった。
それが変わったのは、それほど昔ではない。

あれは一月の中頃だったか、新宿のホテルのロビーで彼女を見かけた。
ちょうど新年会の時期で、その日も広間ではどこかの新年会が催されていた。
僕は仕事のターゲットをそこのロビーで待っていた。
間断なくロビーを行き交う人々の姿を追う僕の前を、着飾った彼女が通り過ぎていった。
その瞬間はそれが誰だかわからなかったけれど、面影を追っていったら彼女に行き当たった。

その時から僕は知っている。
彼女は、まゆさんは、僕とは違う世界に生きている人間だと。

「……久しぶりだな、ドクター」

かけられた声に、僕は現実に引き戻された。
時計を見ると、さほど長い間思索にふけっていたわけではないらしい。
けれどこんな外で周囲が見えなくなるほど考え込むなんて、今日の僕はどうかしている。

「久しぶりですね、Jack」

現れたのは長身の男。
以前、仕事中に偶然出会った同業者のJack。
まゆさんが風邪を引いて寝込んだ日、僕が調査の依頼をした相手だ。

「やけに考え込んでたな。この子のことか?」

差し出された事務用の大きな茶封筒。
中には数枚の書類が入っている。

「さぁ、どうでしょう」

中身を簡単に確認しながら僕はJackに告げた。
一応、誤魔化そうとするだけの余裕はあったらしい。

「……なかなか普通の女の子だな」

Jackはコーヒーを頼んでから僕に向かって言う。

「普通、ですか?」

その言葉の意味を計りかねて、僕は彼に問い直した。

「一般以外から見たら、な」

「何が言いたいんです」

「いいや、俺が口を出すことじゃないさ」

そんな彼の様子に、微かに僕が苛立ったのは何故だろう。

「……まぁいいですが。これが約束のディスクのコピーです。どうぞ」

取り出すのはラベルも何も貼っていないただのMO。
変哲も無い同じ仕様のそれが五枚。

「悪いんですが余分なファイルも相当含まれてますよ」

そのディスクの中身は昔、僕が居た所から抜け出す時に持ち出したものだ。
手当たり次第に情報を引き出したから、個人の私的なメールから機密事項まで、多岐にわたる内容のファイルが書き込まれている。
一度はそれらを整理しようと思ったのだが、専門知識をもたない僕には理解不能なデータも多々あったために断念した。
一々調べるのが面倒になったと言った方が正しいかもしれないが。

「それは後で確認するさ」

「それと貴方が言っていた男、『あそこ』の人間じゃありませんよ。外の、おそらく欧州あたりの組織の関係者かと」

「……わかった」

「記憶が正しければ、の話ですけどね」

そうは言ったものの、僕の記憶力はかなり良い方だ。
「あそこ」に居た頃、僕はそこに出入りする人間のほとんどと顔を合わせている。
僕は見せ物のようなものだったから、勝手に人がやってきて僕を見ていった。
そして今でも彼らの顔のほとんどを覚えている。

「一応、そこらへんは信用してる」

「じゃあ記憶力以外は信用してないと?」

「さあな」

冗談めかして言ったら、Jackの方も軽く笑った。

「俺はそろそろ行くぞ。それなりに忙しいんだ」

「これから仕事ですか? 忙しいとは羨ましいかぎりですね」

「お前さんだって最近良く動いてるじゃないか」

Jackはテーブルに自分のコーヒー代を置いて立ち上がった。

「……外に居る奴に覚えが無けりゃ、気を付けろよ。じゃあな」

彼の去り際の言葉は警告だった。




+++++




私がカフェに着いたのは約束の時間に三十分も早い五時半だった。
自分でも恥ずかしくなるくらい舞い上がっていて、とてもじゃないけど家になんて居られなかった。
昼過ぎにセイに電話をしてからずっとこんな感じ。
本当に自分でもどうしようもない。

服を選ぶだけでも大仕事で、電話の後すぐにクローゼットの中の洋服を引っ張り出して着せ替え大会。
いっそのこと、この前買った新しいスカートにしようかとも思った。
でも天気予報によれば今日は一日雨、しかも夜からは雪かもしれないというのだから諦めるしかなかった。
天気予報って、悪い予報はあまり外れない。
かわりに白のハイネックセーターと赤いタータンチェックのプリーツスカート、それに黒のロングブーツを合わせてみた。
それなりに可愛く見える……、と思いたい。

そんな時間から準備していたので、五時前には完全に支度が終わってしまった。
しばらくはリビングのソファに座っていたけれど、すぐに耐えられなくなって家を出た。
そして、現在に至る。

(……ちょっとテンパってるんじゃないの?)

あの日と同じ窓際の席。
私は「今日こそは」と思って紅茶を頼んだ。
あの時、セイが頼んでいたのと同じ物を。
評判になるだけあってその紅茶はとても美味しかった。
でも、先日行ったセイの家で出された、彼が用意してくれた紅茶のほうが、私には何倍も美味しく思えた。

窓の外の街は雨に濡れていて、以前セイと見た景色とは全く違っている。
この雨のせいで今夜は月が見えないだろうけど、しっとりとした風景は私の好きなもののひとつ。

雨の音が、近く聞こえた。

カップの中身が半分に減ったところで、私は化粧ポーチを持って席を立つ。
その白い縁には薄紅のルージュの跡が残っていた。
化粧室の鏡を覗きこんで、丁寧に紅を乗せる。

(全然落ち着かないし……これなら本でも持ってくれば良かった)

そうすれば少しは気がまぎれたかもしれない。
そんなことを思ってみても、時、既に遅し。
時計の針は約束の十分前を指していた。

セイは、まだ来ない。
いや、来なくて当然。
まだ約束の時間よりも前。
むしろ、今彼が現れたら、私の心臓は驚きで止まってしまうんじゃないかって、それくらい早鐘を打っている。

早く会いたい。
でも会いたくない。
今は駄目。
でももう限界。
どうすればいい?

私が一人、時に取り残されている間にも、壁にかかった時計は正確に時を刻む。
気付いた時には針の先端は六時十分の位置にいた。

(どうしたのかな……)

ふと、不安になる。
もし他の誰かとの待ち合わせなら、たった十分の遅刻なんかで不安になったりしないのに。

セイの性格を考えたら、遅くなりそうなら電話くらいしてくれそうに思える。
けれど、何か仕事関係の用事で電話の出来ない状況という可能性もある。
今日になって私が急に呼び出したのだからそれは仕方ない。

それから、さらに十五分が過ぎる。

紅茶はとうに冷め切っていたけれど、新しく頼む気にもなれなくて。
知らないうちに私はスカートを握り締めていて、そこだけくっきりとシワになっていた。

(何で、来てくれないの……?)

あんなに近くにあった雨の音は次第に遠くなって、私は此処に独りだった。

さらに十五分経った頃、私は居たたまれなくなって席を立った。
閉店も近い時間帯だし、もうこれ以上この場所には居られない。

店の外に出てから、雨音が無いことに気付いて私は空を見上げた。

「…………雪……?」

暗い空から、白い雪が少しずつ舞い降りてきた。

人気の無い通りに、静かに雪は降り積む。
けれど濡れた地面に長く留まることは出来ず、すぐに解けて消えてしまった。

(これじゃ、積もらないね……)

地面には積もらない。
その代わり、傘を差していない私のコートの肩がうっすらと白くなっていった。

と、バッグの中の微かな振動が私に携帯電話の着信を知らせる。
慌てて震えるそれを取り出す。
けれど、かじかんだ指では中々上手く通話ボタンを押せなくて、私は手袋をしていなかったことにようやく気付いた。

「……もしもし」

『まゆさん?』

それはもちろん、私が待ち望んでいたあの人の声だった。

『連絡が遅くなってすみません。今日は、会えなくなってしまって……』

でも、私が望んでいたのは声だけじゃなくて。

「ううん、いいの。あの、明日は?」

『……すみません。明日も会えません』

「じゃあ、いつなら? 私、待つから……」


嗚呼。

もしも雨が降っていたなら。

仮定の話などしても意味が無いことは知っている。

けれど、もしかしたら。


雨音にまぎれて、その言葉を聞かなくてすんだのかもしれないのに。


「…………ねぇ、私のこと、嫌い?」

あの人が、セイが、電話の向こうで困った顔をしているような気がした。

違うの。
貴方を困らせたいわけじゃない。

それなのに、貴方を困らせるような言葉しか思いつかない。

とうの昔に私の心の中はそれだけになってしまっていたから。

加速していくだけの想いは止まらない。

この世界には神サマなんて居ないのよ?

この場所に居るのはたった一人、私だけ。

だから。

自分で終わらせよう。


「…………ありがと」


それからどうやって自分の部屋に帰り着いたのか、全く覚えていない。
気付いた時には、ラベンダーの入浴剤を入れた湯船の中で涙を流す自分が居た。




+++++




電話は、彼女が切った。
しばらく経って、彼女がかけ直してくることを期待している自分に気付いて、笑った。
笑う以外にどうすればいいのかわからなかった

(……全部終わったっていうのに……僕は馬鹿か?)

携帯にべっとりと付着した血液をぬぐう。
壁にもたれた身体を起こしたら、既に治り始めていた傷口が再び開いて痛んだ。
その間にも雪は静かに僕の視界を埋め尽くしていく。

僕と彼女は終わってなどいない。
始まってすら、いなかったのだから。

つまりは、僕の手は他人の血に汚れ切っていて、いくらそれに気付かない振りを続けようとも、もはやこの腕は彼女を抱くのに相応しくないと、そういうことだ。




+++++




その夜、月は見えなかった。

雪が降っていたせいで、とてもとても静かな夜だった。

それを眺めながら思った。

もしも雪に音があるとすれば、それはきっと涙が零れ落ちる音だと。

けれど夢に見た雪は、現実と同じ無音で空から地上に舞い降りた。




 BGM 「Close To Your Heart」 BY 愛内里菜