#06 eye 〜物事の中心〜
僕の手は血に汚れている。
その事は抗いようのない事実であって。
それを知りつつも、僕はそれに気付かない振りをしていた。
その日は静かな部屋に響く携帯の無機質な着信音で目を覚ました。
「……ん」
横着だとは自分でもわかっているが、エアコンが効いていない部屋の中があまりにも寒くて、僕はベッドにもぐり込んだまま手だけを伸ばして、鳴りっぱなしの携帯を手元に引き寄せた。
着信ボタンを押す前に時計を覗いたらまだ朝の七時前だった。
非常識だと怒りたくても怒れる相手ではないことを確認してから、僕は着信ボタンを押した。
「……もしもし?」
『ようやく出たね。寝てた?』
嘆息は隠せても、寝起きの声は誤魔化せなかった。
昨日は帰りが遅く、まだ眠りについて3時間も経っていない中途半端な時間なのだから仕方無い。
「まだ朝早いですからね。この時間に既に活動時間な貴方の方が不思議ですよ」
この時間帯なら僕たちのような職種の人間は寝ていても当然だ。
僕たちの仕事は真夜中こそが本番なのだから。
それでも僕は仕事から上がるのも起きるのも早い方だが。
「仕事ですか?」
『もちろん。それ以外の用事でこっちから連絡するわけないし』
電話の向こうの彼は仲介屋兼掃除屋。
その名の通り「仕事」の仲介と掃除を生業にしている。
仕事と言ってももちろん求人広告に載るような仕事ではないし、掃除と言うのもハウスクリーニングのようなものではない。
ある意味それに近いとは思うが。
彼の仕事は「殺し」の仲介と、その仕事によって発生する死体と現場の後始末だ。
僕も彼には世話になっている。
『ちょっと急ぎでさ。今夜なんだけど、空いてる?』
「構いませんよ」
『じゃあ、夕方五時に銀座で。今回もよろしく』
そう言って、電話は切れた。
僕は今日が何日だったか確認するためにカレンダーに目をやって、そしてもう一眠りするために毛布をかぶり直した。
もちろん、エアコンのタイマーをセットするのを忘れずに。
+++++
土曜日の午後、左右に人を避けながら銀座の散策が始まる。
ブランドショップの並ぶ通りを歩いて、気に入ったものがあれば買えばいい。
支払いはカードで。
どうせ、名義は父親。
私が自分から銀座に出ることは滅多に無い。
買い物をするなら新宿か渋谷だし。
それが何故今日に限って銀座にいるかというと、ママと会うためだったりする。
高校を卒業して一人暮らしをするようになってから一度も実家に帰ってはいないけれど、ママとは外でたまに会っている。
食事をしたり舞台を見に行ったり、一緒に買い物をすることもある。
けれど、父親とは一度も会っていない。
最後に顔を合わせてからもう一年半くらいだろうか。
電話も半年していない。
そんな事とは全く関係なく、最近、思うことがある。
例えば、キレイになりたい。
他でもない、彼のために。
(変わったのかな、私……)
あの夜にセイと出会ってから。
変化は悪いことではないと思う。
こんな自分に自分で驚いているだけ。
しばらくぶらついて、結局お気に入りのブランドの新作のバッグと春物のスカートを買った。
実際に使えるのはもう少し先になるけれど、それが今から楽しみでならないのは何故だろう。
その時、私は見慣れた姿が視界の隅を横切るのを感じた。
「え……」
思わずその場に立ち止まって振り返る。
後ろを歩いていた男の人にぶつかって睨まれたけれど、そんなの気にしてられない。
貴方は運命の巡り合わせを信じますか?
いつもはNOだけど、今日この時だけはYES。
「セイ!!」
「……まゆさん?」
セイの、少し驚いた顔さえもどうしようもなく愛しくて。
自分がこんなにもこの人を好きなんだということが幸せで。
「こんな場所で会えるなんて思ってもみなかった」
人の流れから離れた彼に駆け寄って隣に並ぶ。
肩から落ちかけたバッグを掛け直して私は言った。
「僕もですよ……。今日はどうしたんですか?」
「買い物と、あとはちょっと人と待ち合わせしてて。セイは?」
「まぁ、僕も人と待ち合わせですね」
「そう」
仕事の待ち合わせなんだろうと、なんとなくわかった。
いつもと違う、鋭い雰囲気で。
それは初めて出会った時のように冷たい刃を隠し持ったセイだった。
「風邪はもう良いのですか?」
「うん、もう平気。あの時は色々とごめんなさい」
「いえ……。それより、時間は大丈夫なんですか?」
「あ、そろそろ行かなくちゃ。ここから歌舞伎座まで歩かなきゃならないし」
「歌舞伎、ですか……?」
怪訝そうなセイの顔を見て、あわてて付け足す。
「ママが好きなの! 今日はママと会う約束で……」
「そうですか。では、いってらっしゃい」
笑ったセイは、いつものセイに見えた。
「うん。じゃあ、またね」
手を振って、私は人ごみの中に戻る。
少し行ってから振り返ったら、セイはまだこちらを見ていたので、私はもう一度手を振った。
言葉を交わすだけでこれ程までに幸せになれる。
私は初めて知った。
「可愛かったね。彼女?」
背後からかけられる声。
一瞬、僕はワイヤーを仕込んである腕に力を入れ、そしてすぐにその緊張をほどいた。
「……気配を断って後ろから近付かないでください」
「悪いね、ドクター。クセなんだ」
髪を明るい茶色に染めた、今時どこにでもいるような青年が僕の真後ろに立っていた。
仲介屋兼掃除屋の戒人だ。
肩をすくめてみせる彼の様子は、悪かったと思っているようにはとても見えない。
「早々に直すことをお勧めします。……で、いつから見ていたんですか?」
言葉の端に少しの棘を含めても、彼にはたいして効かなかった。
「そうだな、『今日はどうしたんですか?』のあたりから」
(ほとんど最初からじゃないですか)
その文句は口にしなかったが、ともかく戒人の誤解だけは解いておかなければなるまい。
変に興味を持たれるわけにもいかない。
それに、僕とまゆさんは本当になんでもないのだから……。
「……彼女は知り合いでね。さっきは挨拶していたんですよ」
そう、「ただの知り合い」のはず。
僕たち二人は。
「ふぅん。知り合いねぇ」
そう言って戒人はまゆさんが行ったのと逆方向に歩き出したので、僕も隣に並んで彼について行った。
一見、普通に歩いているのと変わりはないが、この雑踏の中で誰とぶつかることもなく進んでいく彼は、間違いなく裏社会の人間だった。
「さっきのコ、結構良いトコのお嬢様なんじゃないの?」
「さぁ。私は知りませんよ」
これは本当のこと。
僕は彼女のプライベートに関して、ほとんど何も知らない。
先日一緒にカフェに入った時も、あまり多くのことを話さなかった。
人見知りというわけではないだろうが、おそらく聞くことの方が得意なタイプなのだと思う。
「あっそ。別にいいけどさ」
ビルの1階にある喫茶店のドアを開け、僕たちは一番奥の席に座る。
すぐに現れたウェイターに注文を告げて追い払ってから、戒人は前置き無く本題に入った。
「今日の行き先は新宿」
新宿。
何度行っても、あまり好きになれない場所だ。
「アルタ前、八時には現れる。はい、写真」
写真を手にとって、今回のターゲットの特徴を頭の中に叩き込む。
間違えると後々面倒なことになりかねない。
「女性ですか」
写真を返す。
化粧は派手だが、年は若いように思える。
ふと、自分の眉間にしわが寄るのを感じた。
「ドクターってフェミニストだったの? ……名前は工藤令子。彼女を依頼人の名前で呼び出してあるから…………吸っていいかな?」
ウェイターがコーヒーを運んでくるのを見て、戒人は一度話を中断した。
「えぇ、どうぞ」
僕はそれに合わせて彼の方に灰皿を動かす。
戒人はライターで火を点け、紫煙をくゆらし始めた。
「……今回、依頼人側にも相当事情があるらしくってね。相手を呼び出してくれるは場所の指定はしてくるわ。おまけにアフターサービスもいらないって」
「なるほど。場所というのは?」
コーヒーカップに口をつける。
中の黒い液体は熱すぎて、あまり美味しくなかった。
+++++
冷たい水で手と、そして顔も洗う。
頭の芯はずっと醒めていて、鏡に映った青色の僕の瞳はどこか虚ろだった。
バスルームを出て部屋に戻ると、ベッドの上には白いシーツを真っ赤に染めた女性の躯が横たわっている。
それをなるべく視界に入れないようにしながら、僕はコートを羽織って部屋を出た。
薄暗い廊下を通って建物の外に出ると、身を切るような冬の風が僕を撫でていった。
雑居ビルの間を抜けて大通りに出る。
とっくに終電が無くなった時刻なので駅に向かう人は少なく、変わりにこれから一晩飲み明かす人々やタクシーの群れがうごめいていた。
電話ボックスにもたれ掛かった戒人がこちらを見ていた。
「今日は、貴方の仕事はもう無いのでは?」
今回の依頼はアフターサービス、つまり死体の片付けが必要無い仕事だった。
戒人の仕事は僕に依頼を仲介した時点で終わっている。
彼は煙草を地面に落として火を消し、それから僕の方に近付いてきた。
「謝ろうと思ってさ」
「謝る……私にですか?」
思わず聞き返してしまう。
あまりに思いがけないことだったので。
「彼女がいるのに、こんな仕事回して悪かったなって」
「……ただの知り合いだと言ったはずですが」
駅の方に向かう僕の後をゆっくりとついてくる。
「機嫌、悪いね」
「今日のような仕事は、あまり私の趣味ではないのでね」
赤信号で一度止まる。
目の前を酔っ払った客を乗せたタクシーが通り過ぎていった。
「女を抱いて、それで殺してお金になるんだから割のイイ仕事だと思うけど」
信号が青に変わり、僕たちは再び歩き出した。
「私には、そうは思えませんね」
「……ゴメン。次からはこの手の仕事は別の奴に回すよ」
僕は無言のまま。
そこで会話は終了した。
ふと、視線を感じる。
立ち止まりあたりを見回してみるが、刹那感じたそれの持ち主は見当たらなかった。
星は無いくせに、下弦の月だけは暗い空で己を主張しているようだった。
「どうかした?」
「別に……」
いぶかしむ戒人をはぐらかし、僕はコートのポケットに手を突っ込む。
中には携帯が入っていて、それのマナーモードを解除してポケットの中に戻した。
(敵意は無かった……。まあ、放っておいても平気でしょう)
「で、これからどうする? 飲むなら付き合うけど?」
「今日は帰りますよ。歩いて帰っても夜明け前には自宅に着きますから」
「そう? じゃあね」
片手を上げて戒人は元居た方向に戻っていく。
僕は一人、深夜の街を歩き始めた。
今は一人になりたかった。
一人でいると、先ほど僕が殺した女性の化粧の下、幼い素顔を思い出しそうになったが、あいにくそれで感傷に浸れるほど僕は弱くない。
どうせ明日になれば忘れるはずだ。
僕が覚えている死に顔は、過去も未来も唯一つだけ。
+++++
その日も静かな部屋に響く携帯の無機質な着信音で目を覚ました。
「……もしもし?」
『あの、セイ?』
稀に、相手を確認しないで出るとこういう目にあう。
「まゆさん!?」
僕は驚いて思わず飛び起きた。
『ごめんなさい、寝てた?』
「いえ、大丈夫ですが……」
答えになっていない。
電話をもらっただけで、こんなに動揺するなんて情けない。
『あのね、今日アップルパイを焼いたんだけど、もしよければそれの処理を手伝ってもらえないかなって思って』
「……それは、是非ご相伴に預かりたいですね」
電話の向こうでまゆさんが笑ったのが息遣いでわかった。
『ありがとう。……その、そっちにお邪魔しても良い?』
パジャマのままの僕は、一瞬考えてから返答する。
「三十分後なら」
もう一度、彼女が笑った。
『わかった。それじゃあ、また後で』
電話が切れてから、僕は慌ててベッドから出た。
カーテンを開けると外はやわらかい光にあふれていた。
僕の手は血に汚れている。
それをわかっていて、僕はその手で彼女のために紅茶を用意する。
ただ今は、彼女がこの部屋の扉を開けるのが待ち遠しかった。