#05 相 〜傍につく〜


何か、おかしい。
今日、彼女に出会って僕はそう思ったはずだ。
元気が無い。
そう、確かに感じた。
それは僕の勘違いだったのか?
そんなはずはない。

並んで歩いていたまゆさんが足を止めたので、僕も立ち止まった。
気付けばそこは彼女のマンションの前。
いつも裏の川沿いの道を歩いているから、あらためて正面から見るのはなんだか変な感じがする。




ふと、彼女の視線を感じた。

「まゆさん…?」

白い電灯の下、まゆさんの頬が妙に赤いように僕には見えた。

(……赤い?)

そうしたら、僕は彼女に触れていた。
自分の行動に唖然とする。
指先から彼女の体温が伝わってきた。

熱い。冷たい。

彼女が、まゆさんがびくりと身体をふるわせるのがわかって、僕の手は振り払われていた。

「お休みなさい」

まゆさんは僕のことを見なかった。
かけられた言葉は冷たく、もちろん振り返ることも無く。
宙ぶらりんになった僕の手の中にまだ彼女のぬくもりの一片があるような気がしたが、そんな目に見えないものは冬の風に吹き飛ばされていった。

いきなり女性の頬に触れるという事はどう考えてもマナー違反で、失礼きわまりない行為であることは疑いようが無い。
海外では男から女性に握手を求めるのも失礼だというじゃないか。

(…そうじゃない)

僕は思考の方向転換を図る。

(そうじゃない、僕は馬鹿だ)

何かおかしいと、わかっていたはずだ。
感じていたはずだ、違和感を。
確かにそれは僕の勘違いではなかった。
だが何がおかしいのかわからなかったのだから、僕はただの馬鹿だ。

結局何がおかしかったのかと言えば、まゆさんの体調。
自分自身が熱を出したり風邪を引いた記憶など皆無に等しいからか、僕はそのことに全然気が回らなかった。

(まゆさんは、冷え性だった。
 あんなに手が熱いわけないじゃないか…!!)

僕の片手には渡し損ねた彼女の荷物があったが、もはやそれを渡す相手の姿は無く。

後悔。
何度も襲い来るモノ。
それを僕は知っていたはずなのに。

もしかしたら、知っていると思い込んでいただけかもしれない。




階段を上って、廊下の一番奥の自分の部屋の前に立つ。

(何で…私は逃げたんだろ……)

あの場に居たくなかったから?
頭がぼうっとして、何も考えたくない。

カバンを中を探って家の鍵を取り出して、鍵穴に差し込んで回す。
かちゃりと軽い音がしてドアが開いた。
家の中は明りをつけていないから薄暗い、というかほとんど何も見えない。
玄関の電気のスイッチを入れるとオレンジ色の光の下に脱ぎ散らかした靴が何足かあって、それが気に入らなくて私は下駄箱の中に全部押し込んだ。

テーブルの上にカバンを置いて、私はソファに寝転んだ。
もう夕方だけど何もする気にならない。
今日スーパーで買ってきたものを片付けようと思ったけれど、セイから返してもらうのを忘れたことに気付いた。

(なんか、もういいや……)

私はそのまま目を閉じた。




+++++




あれって、何年前だったかなぁ。
やっぱり冬だったっけ?
私、ずっと待ってたんだよ?
それなのにあなたは来てくれなかったよね。
一言、声をかけてくれるだけでも良かったんだよ。
電話でも良かったんだよ。
もう諦めてたけど。
わかってたんだけど。
期待した私が馬鹿だったのかな。
……ねぇ?


コツコツと窓ガラスを叩く音がして、私は重い瞼を開けた。




いつもより時間は遅いが、僕は川沿いの散歩道を通って駅へと向かっていた。
もうすぐまゆさんの住んでいるマンションが見えてくる。

彼女は、もう寝ているだろうか。

(お願いですから、今日はそこに居ないでくださいよ)

仕事前に彼女の姿を見るのが実は楽しみになってきていたのだけど、今日だけは。

けれど、段々と近付いてくる。
彼女の部屋の「光」

「…………」

僕は自分の眉間にシワが寄るのを感じた。

自然と足が速くなる。
走り出すわけではないけれどそれに近いくらいの速度ではあるはずだ。
彼女の部屋の下にたどり着いて、僕はそこを見上げた。
そこにまゆさんの姿は無いが、カーテンは開いていて部屋の電気がついている。

(倒れているとか、ないですよね……)

僕は不吉な考えを頭から追い出して、左右を見回す。
幸い、周囲に人影は見当たらない。
上下の階の部屋からも明かりは漏れていない。
もう一度後ろを振り返ってから、僕は地面を蹴った。

そして僕が見たのは、ソファに横になっている彼女。

(倒れているわけじゃないですけど……)

寝るならば、ちゃんとベッドで寝て欲しい。
体調が悪いのならなおのこと。

「まゆさん」

僕はコツコツと窓ガラスを叩いた。

起き上がったまゆさんは何故か泣き出しそうな顔をしていて、その表情だけがやけに印象に残った。




「なんで、ここにいるの……?」

窓を開けた彼女の第一声がこれだった。
怒るべきなのか呆れるべきなのか、僕には良くわからなかった。

「それは、僕のセリフです。なんであなたは寝てないんですか! 熱があるんでしょう!?」

僕に言われて初めて気がついたのか、彼女は自分の頬に手を当てて驚いたような顔をした。

「……本当」

「早く着替えて、寝てください」

「……うん」

ふらふらと歩く彼女の姿を見るとなんだか放っておけない。
僕はその場で靴を脱いで中に入った。
窓の鍵を閉めてから、僕はまゆさんに手を貸した。

「大丈夫ですか?」

彼女は無言で頷いただけだった。

「薬はどこですか?」

「あそこ。引出しの一番右」

指で示す。
その場所を確認して彼女を寝室に送った。

リビングに戻ってコートを脱いでから引出しを開ける。
ビタミン剤や絆創膏が詰め込んである中から僕は体温計と風邪薬を取り出した。
食器棚からガラスのコップを出してキッチンで水を汲む。
キッチンは片付いていて、シンクには汚れひとつ付いていなかった。

「……まゆさん、いいですか?」

部屋の戸を叩く。
返事が聞こえてから僕はドアを開けた。

「薬と、体温計です」

「ありがと……」

僕の手から薬を受け取って、まゆさんは顔をしかめた。

「この薬、苦いのに……」

「これしかないんだから、飲んでください」

そう言ったら、彼女は渋々それを口にした。
それを見てから僕は体温計を手渡した。
替わりに中身が半分ほどに減ったコップを受け取る。

「タオル、濡らして持ってきますから」

「……うん」

コップを台所に置き、洗面所でタオルを濡らして戻った時には、彼女は体温計を片手に持ったままベッドに倒れこむようにして眠っていた。
僕は彼女を起こさないようにそっとその手から体温計を取り、蒲団を肩までかけてあげた。
そして上を向いた彼女の額にタオルを置く。

(なんで、ダブルベッドなんでしょう)

1人暮らしであるのに。
そもそも1人で暮らすにはこの家は大きい。
余計な詮索はしたくはないけれど。

したくないと言うより、できる立場でもないか。




+++++




再びタオルを換えに入った部屋の窓からは、ほんの少しだけ空が見えた。
時刻はもうすぐ午前2時をまわる頃。
そこにはいびつな形の月が南中していて、
僕は知らずに目を伏せて若草色のカーテンを閉めた。

「…………」

聞き逃してしまいそうな程に微かな声が彼女の口からこぼれた。

「まゆさん?」

「……なんで、来てくれないの……?」

ふと、彼女の弱い一面が見えたような気がして、同時に僕は彼女の手を握りしめていた。
温かい何かが流れてくるようだ。

「ここにいますよ」

僕の声が聞こえているかはわからない。
ただ彼女が毎晩何を思って眠りにつくのか、その一片がわかってしまって、それがどうしようもなく切なくて。

(一人で眠るには広過ぎますよ、このベッドは……)

今、この僕にできることと言えば彼女の手を握るくらいで、なんだか自分がひどく小さい無力な存在に思えた。
タオルを換えて、僕はその部屋を出た。

はからずも今日の仕事はキャンセルとなってしまったけれど、今夜まゆさんを独りにすることがなくて良かったと心底思う。

(ここからは大きく空が見える)

ベランダはいつも彼女の居場所。
今は誰もいなくてそこは寒々としていた。

(でも、月は見えないんですね)

それは北向きだから。
それなのに僕は彼女に月が似合うと思った。
間違いだとは思わないけれど、もしかしたら。
きっと。
彼女には陽のあたる場所の方が相応しい。

脱ぎっ放しのままだったコートのポケットから携帯を取り出し、コートはそのまま椅子の背にかけてから、僕はソファに身を沈めた。
いくつか登録されているメモリの中から目当てのものを探し出し、そして仕事依頼のメールを打つ。
さらに今晩の仕事が延期になったことを知らせるメールも打った。
それを依頼人に送り終えると、先ほどの依頼に対する返信が既に来ていた。
中に書かれているのは必要最低限な事柄だけ。

(彼らしいというか、なんというか……)

仕事中に偶然知り合った同業者の顔を思い出してみた。
彼の仕事は信頼できる。
僕は特定の情報ソースを持っていないから、自然と彼のような情報屋に頼ることになる。
まあ、彼の本業は情報屋ではないのだが。

(さて、これからどうする……?)

僕は自分自身に問い掛けて、そして苦笑した。
やりたいことは決まっている。
それが、僕にはあまりに相応しくないということ。
ただそれだけだ。




いつものように目を覚ました。
カーテンの隙間から朝陽が入ってきて、部屋の中はほのかに明るい。

「……身体、痛いなぁ……」

ベッドの中で妙にダルい身体をごろんと転がす。
手を伸ばしてサイドテーブルの目覚し時計を取って、その時間に私は驚いた。
午前9時。

「うそっ、もうこんな時間!?」

勢い良く起き上がったけれど、ぐらりと目の前がゆがんで私は頭を押さえた。

(……風邪引いてるんだっけ)

昨日の夜、苦い風邪薬を飲んだ記憶がある。
いや、確か飲まされた。

誰に?

(セイ……?)

私はパジャマの上にカーディガンを羽織ってリビングに向かう。

夜、嫌な夢を見た気がする。
誰かが私の手を握ってくれた気がする。
私の勘違いでもいい。
熱にうかされて見た幻でもいい。

でも、それは夢ではなかった。

リビングのソファには眠りこけているセイの姿があった。
カーテンが開けっ放しで、リビングは明るかった。
なんだか泣きたい気分になった。

暖房の入っていない部屋は肌寒くて、私はエアコンのリモコンを探した。
温かい風が流れ出すのを確認してからテレビの電源を入れる。
いつも見ているニュース番組は終わっていて、その後にやっている別の番組のキャスターの顔が映し出された。

「あ、まゆさん……」

テレビの音でセイが目を覚ます。

「……おはよう」

「おはようございます」

セイはしばらくぼうっとした様子だったが、何かに気付いたように急に立ち上がって私の方に向き直った。

「頭は痛くないですか!? 熱は!?」

「……多分、大丈夫だとおもうけど」

セイのその様子がおかしくて、私は少し笑った。

「そうですか? まだ熱は下がりきってないみたいですけど」

そう言って私の額に手を当てる。
本当だ。
セイの手が冷たく感じる。

「あ……、すみません、つい」

反射的に私から手を離す。

「別に、気にしないから。それに……好きだし」

セイの手が。
もちろん手だけじゃないけど。

「……? とりあえず、まだ寝ていてください。食欲はありますか? 何か作りますけど」

「……ありがとう」

そこまでしてもらっていいのだろうかと思うが、この場はセイに甘えてしまうことにした。
もう少し、セイと一緒にいたいから。

「それと、あとで薬を買ってきますね」

薬?

私の怪訝な表情を見て取ったのか、セイは言葉を続けた。

「風邪薬ですよ。今ある粉薬、苦くて嫌いなんでしょう?」

やわらかく笑った。

そんなの、反則。


やっぱり、私はあなたが好きです。