#02 遭 〜そういう目にあう〜
今日も彼は月明かりの下、急ぎ足で何処かへ出かけていく。
私は2階のベランダから彼の姿が見えなくなるまで見送る。
セイと、低い声で名乗った彼は、今日も誰かを殺しに行ったのだろうか。
私の視線だけの問いに彼が答えてくれる筈も無く。
そもそも彼が私の問いに答える由など無くて。
それでも、問えば彼はきっと律儀に答えてくれるのだと思う。
あの優しい仮面をかぶったままで。
彼は私の存在など気付かない。
いや、気付いてはいるのだろう。
でも彼の心の中に私という存在がしめるスペースは一体どのくらい?
(関わらない方が私のためだとでも言いたいの?)
そんな一方的な愚痴を心の中でこぼしながら、私は溜息を付く。
吐き出した息は冷たい夜気に触れ、白く色を変えた。
一度言葉を交わしただけの人間なんて、この世の中に一体何人いるだろう。
銀行の窓口の受付嬢や大型スーパーの店員などはその筆頭で、すぐ近くのコンビニの店員はまだ面識がある方。
自分と関わり無い人間の顔なんていちいち覚えてなんかいないし、すぐに忘れてしまう。
毎日が忙しいような振りをして。
彼にとっては、私も同じなのかもしれない。
(セイは私のことを知ってる。でも私はセイのこと、何も知らない)
それとも、名前を覚えてもらえるくらいの興味の対象になっているのだろうか。
堂々巡りの思考回路に決着がつくのはいつになることやら。
「…っくしゅ。…風邪引くのが先かなあ…」
鼻をかむティッシュを取りに、一度部屋の中に戻る。
室内の暖かさにこのままベッドに入ってしまおうかと思ったが、それでは意味が無い。
鼻をかんでティッシュの箱を手に取ると、再びいつもの指定席に戻る。
今日は昼間から良い天気で、冬の星座がきれいに見えた。
駅の反対側は青や緑のネオンでいっぱいだが、私がすんでいる辺りは工場も多いが住宅街で、
そういったものにあまり邪魔されること無く星を見ることが出来る。
別に理科が好きなわけではない。
高校時代、と言ってもまだ一年前だが、化学や物理のテストは目を覆いたくなるような状態だった。
生物はまだマシな方だったが、基本的に理系科目とは相性が悪いのだ。
その中でも地学は話が別で、何故か点数が良かった。
結局は興味の問題なのかもしれない。
星座や星の名を覚えるのは得意だったが、星間の距離の方程式はわけがわからなかった。
(その分、文系科目が得意なら良かったのに)
世の中はそう上手くはできていない。
何でもできる人もいれば、そうではない人もいる。
何故だかそういう風になっているらしい。
早々に大学受験を諦めたのはそういうこともあったから。
そんないい加減な娘の将来を案じてか、それとも世間体の問題か。
別にどちらでも私はかまわないが、ともかく私はこの辺鄙な場所にある調理系の専門学校に通うことになった。
あまり思い出したくない思い出まで引きずり出しそうになったので、私は考えるのをやめた。
考えることをやめた私は、顔を上げ、冷たい夜空を見上げた。
彼に良く似合う夜空を。
軽く手首をひねると、細いワイヤーが闇の中で白銀にきらめく。
何かを掴んだ手ごたえ。
そのまま力をいれて握り締める。
ごとり。
床に落ちた物体に付いた、見開かれたまま引きつった瞳と視線が合う。
そしてほんの数秒してから、元はそれが付いていた本体の方が倒れこむ。
あいにく僕は無神論者で、このような時に呟く言葉を持ち合わせていない。
再びいつものように空にきらめく軌跡を残し、仕事の終わりを告げるだけだ。
取り出した携帯電話のボタンに指を滑らせ、依頼人が電話口に出るのを暫し待つ。
電話の向こうで僕の知らせを待っていたのか、それほど待たされることは無かった。
「こちらの仕事は終わりましたよ。後の処理の方法はご存知ですね」
〈…あ、ああ。それで報酬は…〉
気弱そうな依頼人の声。
これでよく暗殺の依頼などできたものだ。
「指定の口座に振り込んでいただけますか。金額は…」
そうして僕は相場から外れた、ごく「良心的」な金額を口にした。
自分の払える金額内であったのか、どこか安心したような声で依頼人は了解の返答をした。
残された作業は、あとで報酬が振り込まれているかどうかを確認するだけだ。
「それでは、良いユメを」
短い言葉で会話を締めくくる。
依頼人とて、僕のような暗殺者と気軽な会話を楽しみたいとは思わないだろう。
思わず苦笑がもれる。
溜息に近いかもしれない。
(まったく…人は、どんな時に人を殺したいと願うんですかね)
人を殺したいと願う感情と、生憎というか僕は無縁で。
あまり知りたいと思うものでもないのでそれでもかまわないが。
たまに、例えば雑踏にまぎれこんだ時など、唐突に感じる。
(ある種の職業病なんでしょうか)
だとしたら皮肉な病気だ。
再び苦笑をこぼすと、重い鉄製の非常扉を開けて、風が吹き荒れる外階段を屋上目指して上り始めた。
数階分の階段を上がるとそこからは、夜を知らない都会のきらめきが視界に飛び込んでくる。
(夜の無い、まるで虚飾の世界…)
左右に林立するビル。
途切れない人ごみをはるか下方に見下ろし、僕はビル風に吹かれるままになっていた。
血の匂いは好きではない。
好きだという人も珍しいが、このような仕事をしている人間としては、おそらく気にする方だと思う。
返り血などを実際にこの身に浴びることは、滅多に無い。
それでも道具として使っているワイヤーには相手の血液が触れる。
かすかではあるが、どうしても匂いが残るのだ。
普通の人にはわからなくても、同業者にはわかる。
その程度のものでも消したくて、僕はビルの屋上に立った。
(ああ…今夜も月がきれいですね)
満月には1日足りない月に重なって、ふと一人の少女の面影が胸をかすめる。
この寒い冬の夜、毎晩のように空を見上げている少女。
そして何故か自分の名を告げてしまった彼女は、一人で今日もこの月を見ているのだろうか。
冷たい風が頬をなでて通り過ぎていく。
黒いコートの裾がばたばたとひるがえり、そして何も無かったように落ちた。
何となく目を閉じると、さらにはっきりと彼女の影が浮かんだ。
「何を考えているんだか…」
その幻を振り払い僕を現実世界に戻してくれたのは、背後から聞こえた軽い音だった。
後方をゆっくりと振り返ると、いつの間にかそこには一人の青年がたたずんでいる。
作りは似ているが、僕のものよりも上質の黒いコート。
黒い髪と黒い目で、年は20代前半だろうか。
背は僕の方が数センチ高いが、整った顔立ちの青年である。
一体どこから現れたのか。
視線だけ左側に移すと、そこには今居る建物よりも高いビル。
そこにも屋上があるようだった。
どうやらそこからこちら側に飛び移ったらしい。
(隣って言っても、10メートル以上あるんですけどね)
呆れてしまうがそれは顔に出さず、視線を元に戻した。
そして彼の邪魔をしても悪いと思い、ここから立ち去るために歩き出す。
まあ、先客は僕の方なのだから、彼に譲る理由は特に無いのだが。
彼はコートのポケットからタバコを取り出すと、それを指でなでるようにして火をつけた。
ライターではない。
だが、そのことを気にしてはいけない。
僕はわざと足音をさせながら近付く。
タバコの煙を吐き出す彼。
5メートル、4メートル……。
次第に2人のの距離が縮まっていく。
視線も合わさずにすれ違った時、夜風に乗ってかすかに届いた匂いに僕は一瞬顔をしかめた。
酒と、彼が吸っているタバコと、そして女性の香水。
それらが交じり合った中に、さらにもう一つ、別のものを感じた。
(…お仲間ってわけですか)
染み付いて離れない、同業者にしかわからない程度の血の匂い。
(道理で…)
こちらに敵対する意思は無い。
が、この青年は一体どういうつもりなのか。
彼の、無表情なのか、一見ぼーっとしているような表情からは何も伺えない。
僕が彼の匂いに気付いたのと同様に、彼の方もこちらの職業に気付いただろう。
何も起こらないことを期待するしかない。
潰し合いはごめんだ。
幸いと言うべきか、彼は僕の方にさしたる興味も抱かなかったようで。
階段にたどり着きわずかに安堵感を覚えた僕は、ふと視線を手元に落として驚いた。
「…終電の時間ですね…」
絶対に乗り遅れてはならない電車の時間が、気付かないうちにすぐそこにまで迫っていた。
川を渡る鉄橋の上を、いくつもの電車の光が通り過ぎていく。
月は南天から既に傾いていて、室内の壁掛け時計の時間からすると今のが終電だったようだ。
しばらくして、出かけていった時と同じように急ぎ足でセイは帰ってきた。
たいてい彼は終電か、それよりも前に帰ってくる。
律儀と言うか生真面目と言うか。
(彼女の所とかじゃなさそうだけど)
私にもチャンスはありますか?
闇の中を渡り歩く彼の後ろ姿に、私は小さく言葉をかけた。
「…お帰りなさい」
と、雰囲気を出してみたはいいのだが。
「…っくしゅん!」
静かな夜に、私のくしゃみはしっかりと響き渡った。
寒さには勝てない。
間抜けだ。
「そろそろ寝るかなー」
冷え切った手をこすりながら部屋の中に入り、鍵をかけてカーテンをきっちりと閉める。
リビングの電気を消して寝室に行き、私はベッドにもぐり込む。
私が寝ているのは大きなダブルベッドで、両手を楽に伸ばすことができるくらいの広さがある。
一人で使うものではないと思う。
けれど寝相があまりよろしくない私にとっては、床に落ちる心配が無くてちょうど良かった。
薄暗い部屋の中で目を閉じると、まぶたの裏にセイの姿が浮かぶ。
いつか、彼の心からの笑顔を見てみたい。
彼の笑顔を私が引き出したい。
(今は夢の中で我慢してあげる)
今宵の夢は、いかなるものか?
電車に揺られること数十分。
地元の駅の改札をくぐり、ほとんど人がいない駅前を通り抜け、自分の家がある静かな住宅街の方に歩き出す。
5分も歩かないうちに、見慣れたマンションが目に入る。
何となく2階部分に目をやると、そこにはまだ明かりが灯っていた。
(ということは、まゆさんもまだベランダにいるんですかね)
風邪をひくのではないかなどと余計な心配をしてみる。
彼女は一人暮らしだし、誰もそれを注意することは無いのだろう。
また彼女が住んでいるのはファミリータイプのマンションで、すると当然彼女の部屋も2LDK以上になる。
一人で淋しいとか、感じないのだろうか。
だが僕はどうこう言える立場ではないし、そもそも心配する必要のある立場でもないのだ。
この寒い夜に、毎晩外に出ている彼女は変わっている。
でもそれ以上に、その彼女のことを気にしている僕もおかしい。
やはりと言うか、彼女は今日もベランダにいた。
頬は白くなっているし、手袋はしていない。
前に触れた冷たい彼女の手を思い出して、僕は眉をひそめた。
(冷え性にはつらいんじゃないですか?)
そうは思ってみても特にかける言葉も見当たらなかったので、僕はそのまま彼女の前を通り過ぎた。
僕は何度こうやって彼女の前を無言で通り過ぎただろう。
言葉を交わしたのは、あの夜、一度きり。
彼女のことで知っていることは、名前と職業位のもの。
それ以上のことはほとんど知らない。
最初はただの興味本位。
では、今は?
「…お帰りなさい」
背中からかけられた彼女の言葉に、僕の足は一瞬だけ遅くなる。
普通の人間には聞こえないような小さな呟き。
僕に向かってかけられたものであっても、僕に聞かせるためのものでないことは確かだ。
「…ただいま」
彼女の呟きに、僕も小さな呟きで返す。
あとから聞こえた彼女のくしゃみに、意図せずに笑みを浮かべてしまって。
(風邪をひいてからでは遅いですよ?)
今宵の貴女の夢は、いかなるものか?