#01 逢 〜両方から近付いて一点で出あう〜


別に、何もしていなかった。
では何の為にここにいたのかと言うと、単に空を見ていたからだ。
正確に言えば星をだが。
ここは二階で、空にはあまり近くないことが残念だったりする。
毎晩のようにベランダに椅子を引っ張り出してぼんやりと空を見上げたまま朝まで過ごし、東の空が明るくなるころにようやくベッドに入る。
今はそんな生活を繰り返している。

だからその時も、別に何もしていなかった。
ただいつものように星を眺めていた。
今夜の月は三日月。
早々に沈んでしまって、空には星だけが輝いている。
夜の静けさを微塵も侵すことなく、まるで最初からそこにいたかのように彼はひっそりとたたずんでいた。





何をしているの?

その問いを口にすることはできなかった。
彼の足元には、人間だったものが転がっていたのだ。
手に持った細いワイヤーから、赤い液体が滴り落ちている。
悲鳴はあげられない。
あげたいとも思わなかった。
不思議と恐怖は無い。
彼の周囲の空間が非現実的で一枚の絵画のような完成度を保っていた。

「何をしているのですか」

私が問う前に、彼の方が先に口を開いた。
黒いコートを着込んで、闇と同化した彼の声は意外と低かった。
だが表情は妙に穏やかで、とりあえず美形の部類に入る。

(そう、ホストみたい)

我ながら妙な感想だと思うが、私の貧困なボキャブラリーではそう表現するのが精一杯だ。
優しくしてくれるのに絶対に越えることの出来ない一線を抱いている。
穏やかな仮面の下に冷たい刃を隠している、そんな感じだ。

「星を見てるの」

あなたこそ、何をしているの?

そう問い返す代わりに、当り障りの無い、それでいて事実を簡潔に答えた。
もちろん彼が聞きたいのはそんなことではないと思う。
だが他に答えようがないのだから仕方が無い。

私はどうなるのだろうか。

偏見かもしれないが、ドラマとか小説だとこういった場面では、目撃者は口封じの為に殺されてしまうことが多い気がする。
だとしたら、私もここで彼に殺されてしまうのだろうか。
「あの世で自分の不運を呪うんだな」とか、そんな科白を彼が言うとも思えないけれどもそうなる可能性は捨てられない。

パジャマの上に羽織ったストールの端を握りしめる。

(でも、この人ならいいかも……)

「その人、死んでるの?」

馬鹿なことを聞いたものだ。
馬鹿なことを考えていたからかもしれない。
だがそんな問いにも、彼は律儀に答えを返してくれた。

「首と胴が離れてしまったので、まあ死んでいるでしょうね」

「っ…!」

声はすぐ後ろ、頭の上から聞こえた。
ここは2階のベランダ。
先ほどまで私は彼を見下ろして話をしていた。
それなのに今、彼は私の後ろにいる。

(180センチくらいかな)

一体どのようにして一瞬のうちにここまで来たのか考える前に、そんなことを考えてしまった私は相当な間抜けだ。
でも彼も私と同じくらい間抜けなことを考えていた。

「小さいですね、150センチくらいですか?」

何なのだろう、この人は。

「星の観測には少々寒すぎる気もしますがね」

端的に言ってしまえば、人殺しだ。

「あなたの時間をお邪魔して、申し訳ありませんでした。
あそこに転がっているものは気にしないで下さい、すぐに片付きますから」

人の死体と思しきものを指し示す。
そんな風にして話す彼の少し怖い言葉を、私はぼんやりと聞いていた。

彼は穏やかに笑っている。
声もやわらかい当たりだ。
でも、目が笑っていない。
穏やかな仮面の下に、冷たい刃を隠している。
それはきっと、触れるまで気付けない。
そして気付いた時にはもう遅いのだ。
私はその刃に切り裂かれてしまうかもしれない。
そんな予感がする。
いや、予感ではなく、確信に近い。

「さてお嬢さん、あなたは今夜のことを誰かに話しますか?」

なんだか心理テストのような聞き方だった。

心理テストは嫌いだ。
いつも私の答えたい選択肢がないし、どれかひとつを選ぶことが出来ない。
それに、あまり自分のことを知りたいと思っていない。

「話しても信じてもらえないと思うから、多分誰にも話さないと思う」

「成る程、最も信じられる回答ですね」

私が感じ取れなかっただけなのかもしれないが、彼の言葉に嫌味は無かった。
彼が私のことを信用したとも思えないが、彼は模範解答を答えた生徒に対するような言い方をした。

「話してもかまいませんよ。それはあなたの判断ですから」

嫌味は無い。
でもこれは遠回しな脅迫だ。

「誰にも話さない。でも神には誓えないわ」

「では何に誓うのですか?」

「自分に」

間を置かない私の言葉に、一瞬、彼の瞳がその本来の鋭さを見せたような気がした。
だがそれはすぐに隠れて元の穏やかな彩りに戻る。

怖い人だ。

直感的にそう思った。
「怖い人」で当然なのかもしれない。
彼は人殺しなのだから。

水色のストールと黒のコートの裾をなびかせて、私と彼の間を冷たい風が通り過ぎる。
でも、私の身体が冷え切っているのは、そのせいだけではないと思う。

「血が出てる」

ストールの端を持って、彼の頬に手を伸ばした。
何処で怪我をしたのかわからないが彼の頬からは赤い血が滲み出していた。

「ねえ、あなたの名前、何ていうの?」

カシミヤもどきの水色の布で、彼の血を拭う。

何でそんなことを聞こうと思ったのか、上手く説明は出来ない。
社交辞令のつもりでなかったことだけは確かだけれども。
聞いてしまえば、さらなる深みにはまってしまうのは明らかなのに。

「同業者からは『ドクター』と呼ばれています」

やはり彼は律儀に答えて、そっと私の手を取った。
冷たくなった私の手とは違って、彼の手は暖かかった。

「シミになってしまいますよ?」

「安物だもの、かまわないわ」

手から落としたストールには、点々と赤黒いシミが付いていた。
気に入っていても、所詮は駅前の量販店で1980円で買ったものだ。
あまり執着はしていない。

「でも、必要ないんですよ。私が『ドクター』と呼ばれる所以、お見せしましょう」

そう言って彼は、自分の傷口をゆっくりと人差し指でなぞった。

「なっ…!」

思わず驚きの声をあげてしまった。
彼が指を滑らせると、まるで冗談のように傷口が消えていたのだ。

(何なの、この人…?)

普通の人でないことはわかる。
普通の人なら人殺しなんかしないし2階のベランダに一瞬で移動なんかしない。
でもそれ以上に「普通」じゃない。

あまり深く考えない方がいいかもしれない。
きっと、星空に酔っただけだ。

「それでは失礼しますよ。お邪魔して申し訳ありませんでした」

そう言うと彼は、ひらりと身をひるがえして数メートル下の歩道に飛び降りた。
そしてコートのポケットから携帯電話を取り出して、どこかにかける。
2、3話しただけで通話を終わらせると、再びそれをポケットにしまいこんだ。

「待って!私、あなたのこと何て呼べばいいの!」

彼は動きを止め、振り返って私を見上げた。
そして私の時間を考えない大声をとがめるかのように、唇に人差し指を当てた。
それを見て私は少し声のトーンを下げまず自分の名前を名乗ることにした。

「私は…」

「知っていますよ」

「え?」

「早瀬まゆさん、不真面目な専門学校生。すぐそこの料理学校でしたっけ?」

不真面目な、というのは余計だと思う。
あまり否定出来ないが。

「あなた、いつもそこから空を見ていますよね」

どうして、この人は私のことを知っているのだろう。

「…あなただけ私のことを知っているなんて、ずるいわ」

私の言葉に、彼の表情が変わった。
張り付いたような穏やかな顔でなく先ほど一瞬だけ見せた鋭いそれに。
そして鋭い瞳で、私を射抜くように見つめる。
その視線を私は正面から受け止めた。

本当は、目をそらしたかった。
彼の眼は真っ直ぐで、自分でも知らない心の中をのぞかれそうな気がした。
でも、そらさなかった。
怖かった。
それでも私は下唇をかんで、彼に挑み続けた。

そうして過ごした時は、数分も無かっただろう。
先に動いたのは彼の方で、ゆっくりとした動作で私に背を向けた。

「…セイと、呼びたければどうぞ」

ささやくようなその言葉は聞き漏らしてもいいくらいの小さな呟きなのに、何故か私の耳にもはっきりと届く。
足音も無く去っていくどこか淋しげな彼の背中を落としたストールを拾うのも忘れて、闇の中に消えるまで私はぼんやりと見つめてしまった。

(きっと、私は星空に酔っただけ)

そう思い直して、私は冷たい夜風から逃げるように部屋に入ったのだった。


+++++


いつものように、7時ちょうどに目覚し時計が朝を告げる。
私はそれを止めて、ベッドからずるずると這い出た。
食パンをトースターに突っ込み、コーヒーを入れるためにやかんを火にかける。
お湯が沸くまでの間に新聞を取りに行って、テレビのニュースをつける。
いつもの朝の風景だ。

ふと気付いて、ベランダの窓のカーテンを左右に開いた。
北向きのベランダで、一日中日差しの届かない、役立たずのベランダだ。
洗濯物は乾燥機で乾かしてしまうから、たいした問題は無いのだが。

ベランダに出なくても下の歩道の様子が見えた。

(やっぱり、何もない……)

川沿いの散歩道でもある路上には、もはや昨夜の痕跡は残されていなかった。

(きっと夢を見たのね)

はっきり言って、昨夜のことが全て事実だったとは思えない。
セイという美形の殺人者には、夢の中で出会ったということにすれば何も問題は無いのだ。

(殺人者って言うのはどうかな。んー…仕置人とか?)

自分の考えに、これまた自分で苦笑する。
時代錯誤もいいところだ。

「あ、ストール…」

水色のストールが視界の隅に入った。
安物だけれども一番気に入っているものだ。
駅前の量販店で1980円で買ったものだが、なかなかの掘り出し物だと思う。
汚してしまうかもしれないが、値段のことを考えれば普段にも気にせずに使える。

サッシを開けて、サンダルを引っ掛ける。
そしてストールを拾い上げて、それに付いたほこりを払った。

「洗わなきゃ駄目かな…」

汚れ具合を確認するために両手でストールを開いてみて私は自分の目を疑った。
そして信じなければいけなかった。

そこには昨夜の唯一の物的証拠として、点々と赤黒いシミが残されていたのだった。

(……暗殺者)

ようやくその非日常的な単語を思い出した。

ホストみたい。
黒いコートがやけに似合っていた。
身長180センチくらい。
人間離れした身体能力。

暖かい手。

それでいて、仮面の下に冷たい刃を隠した怖い人。

「……セイ…?」

彼の穏やかで仮面のような顔を思い出す。
その仮面の下の素顔を見てみたいと、唐突に思った。
仮面の下の素顔、そして淋しげな背中の理由を知りたいと。

そんなことを考えていた私を現実に引き戻したのは、ピィーっというお湯が沸いた時のやかんの何とも言えない騒々しい合図であった。


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今夜も月が昇る。

私は椅子を引っ張り出して、今日も空を見上げる。