FROM THAT DAY TO THIS.


家に着いたのは、午前五時の少し前だった。
途中、コンビニで朝食用のパンとサラダを買い込んできた。
そして冷蔵庫から冷えた牛乳を一リットルパック丸ごと取り出して、テーブルの上に置いた。

腰を下ろす前に、俺は穴の開いたシャツを脱いで、丸めてゴミ箱の中に突っ込んだ。
結構お気に入りだったんだけどな、このシャツ。
なんてことを言うと、カヅキは「女々しい男だ」と言うに決まってる。

段々、カヅキのことがわかってきた気がするが、それが何かの役に立つとも思えず。
強いて言うならば、怒られる回数が減るくらいか。
まぁ、それも重要だけれど。

テレビを付けるとやっていたのは早朝ニュースで、お天気キャスターのお姉さんが能天気な音楽をBGMに今日の天気を喋っている。
それを聞きながら、俺はドレッシングをかけた大根サラダを口の中に押し込んだ。

食事は三食しっかり食べろ、睡眠は充分に取れ。
俺の生活に対しても、カヅキは五月蝿く口を出してくる。
折角の一人暮らしなのに、新たな監視者が現れたみたいで、最初はそれに反発もした。
その度にカヅキに雷を落とされ、何だかんだで微妙に健康に気を使う生活になった。
この副業のおかげで睡眠時間は不規則になりがちだが、食事だけはしっかりするようになったし、二十歳前に始めた煙草も早々に卒業だ。

パンを牛乳で流し込み、簡単な朝食を終え、俺はゴロリとベッドに横になった。
今日は午後から副業その一の予定が入っているが、昼くらいまではゆっくり寝てられる。
テレビを消して、睡眠体勢に入る。
けれど先ほどの戦闘の余韻か、疲れているはずなのに睡魔は訪れない。

横になっているだけでもいくらかマシだろう。
何度か寝返りを打ち、そんなことも考える。
そうしたら、何故かカヅキと出会った時のことを思い出した。




俺がカヅキと出会ったのは、今から半年ばかり前のことだ。

合コン帰りだった俺は、ほろ酔いイイ気分で歩いていて、不用意に足を踏み入れちゃいけない場所に迂闊にも入り込んでしまった。
ヒトと天狗とに二分されたこの街だが、それ故、どちらにも属さない空白地帯が処々方々にある。
そこは、闇のモノたちが巣食う場所。

濃密な負の空気に、俺は一気に覚醒した。
そして、その次の瞬間には死を覚悟した。
命乞いをして、それで見逃してもらえるような相手ではない。
肌を刺すような、窒息しそうな鬼気は、問答無用で俺に死をイメージさせたんだ。

そんな時、何処からともなく現れたのが、カヅキだった。

俺は奥まった路地で、グロテスクな妖魔に追い詰められていた。
頭はサルで手足はトラ、鵺だ。
尻尾の蛇が牙をむき出して俺を睨んでいる。
その傍らには、見上げるような大きさの鬼。
浅黒い肌に黒い一本の角、下半身に比べて異常に大きな上体を支える為か、これまた大きな両拳を地面についている。

そんなヤツラの向こう側、人通りの途切れた歩道の電信柱にもたれる様にして、カヅキは立っていた。
腕組みをして、つまらなさそうにしている姿はとても場違いで。
そのくせ俺の脳裏には、そいつが何処から現れたのかだとか、何者なのかだとか、そんな疑問は思い浮かばなかった。
ただ、そこにそうして居るのが当たり前のように見えたのだ。

「……何ダ?貴様ハ」

鬼が背後に立つそいつに気付く。
そしてその巨躯に似合わない鋭い動作で、鬼は拳を振り上げた。

このままでは俺もそいつも殺される。
俺はそう思った。

「逃げろッ!」

抜けかけていた腰をも忘れ、俺は駆け出していた。
しかし。

ひゅんっ……!

鞭がしなるような音がしたと思うと同時に、全身を地面に強かに打ちつけられていた。
そして、すこし先でコンクリートがはぜる音。
飛び散った破片が雨のように俺の元にまで降ってくる。

「あ……ぅあぁ……」

やられた。
何が起こったのか全くわからないが、俺はアスファルトの上でうめく事しか出来ない。
薄く開けた目の前には、俺を見下ろす鵺の足があった。

後先考えずに飛び出した結果がこのザマかよ。

コイツらを倒すことも出来ず、気を逸らすことも出来ず。
ただの無力な人間。
悔しくて、唇を噛んだ。

もうもうと立ち込めていた土煙が徐々に晴れていく。

そして俺の目に映ったのは、片腕を地面に突き立てた鬼の姿と、無残に破壊された電信柱。
切れて垂れ下がった電線は、先からバチバチと放電している。

「……?」

そこには、死体も無ければ人影も無かった。
驚いた俺の耳に飛び込んできたのは、至極冷静で落ち着いた声。
それは俺の後方から聞こえた。

「……誇りも使命も忘れ、闇に堕ちた愚か者が」

白い光が無数の槍となって飛ぶ。
そのうちの数本が眼前の鵺を貫き、弾く。
鵺は断末魔も残さず、その体は腐り落ち、異臭を放つどす黒い液体となり、それもすぐに虚空へ消えた。

どうにか身体を起こした俺の脇を通り抜け、それを放った主は俺と鬼との中間辺りに立った。
長く伸ばされた髪に純白の装束、月明かりに照らされる横顔はこの上なく端整だ。
少女なのか少年なのかわからない、中性的な声。
そして鋭い瞳。
しかし生者の気配がまるで感じられない。

「貴様ハ何者ダ」

「それすらもわからぬか、憐れな者よ」

吐き捨てた「彼女」の周囲で鬼火が揺らめく。
それは一つ一つがソフトボール程の大きさの球形にまとまり、ゆっくりと空気に乗って漂いだした。

「鬼ノ炎ヲ使ウ者、貴様ハ何ダ!」

怯えている。
喜と楽、そして怨の感情以外を滅多に表さない鬼が。

とは言え、目の前の現実に怯えているのは、俺も同じだった。
押しつぶさんとばかりに荒れ狂う、光にも似た圧倒的なその力。
それは、まごうことなく神気だった。

「異界で死鬼に聞くがいい」

ぎちっ……

何かがきしむような音。
見ると、周囲を取り巻いていた球体は、その数を減らしている。

「……っ!」

思わず息を呑んだ。
型を抜かれたように、鬼の身体が丸く欠けていて、向こう側が見通せた。

「アァ、グ……」

苦悶の表情を浮かべた鬼。
腕は肩から千切れかけ、孔を穿たれた胴は、その淵から崩れ始めている。
その間にも光球は次々と鬼を蝕んでいく。

鬼を、空間ごと、喰ってる。

そのことに思い当たり、俺は驚愕した。

「それが可能ならば、な」

呟いた「彼女」は、真っ直ぐに立って、身体の後ろで手を組んでいるだけ。
ただ、それだけだった。
この術が非常に高度で、ただの力押しのようなものでないことは、俺にだって感じられる。
咒も印も無く、それなのに完璧に制御され、鬼を屠っている。

「あんた、何なんだ……?」

呆然と、うわ言のように声を漏らす俺に、「彼女」はゆっくりと振り返る。
そして、醒めた瞳で俺を見遣った。
俺は何も言えず、何の言葉も返っては来なかった。

その時、俺が感じたモノは、生物としての本能的な恐怖だったのかもしれない。

「……ガァアアアァアッ!」

「彼女」の向こう側で咆哮が上がる。
耳をつんざくような、悲鳴のような雄叫び。

死の間際にかけると言う、鬼の最期の呪い。

「危ないッ!」

呪いは、果たして物理的障害で防げたか?

そんな事を考える前に、俺の身体は勝手に動いていた。
間に割り込むように、「彼女」を押し退けるように。
けれど。

「案ずるな」

耳元で聞こえたかと思うと、俺はものすごい力で肩を掴まれ、後方に引き戻されていた。
勢い余って尻餅をついた俺が目にしたのは、俺を片手であしらった「彼女」が、ほっそりとした右手を鬼にかざしている姿だった。

「消えろ、塵芥も残さずに」

その言の葉は呪い返しだ。

かざした手を優雅にひるがえし、手の平を天に向ける。
其処から流れ出てきたのは、闇色の何か。
最初は緩やかに、そしてすぐに奔流となって溢れ出し、意思を持った生き物のように鬼へと向かっていく。

呪いを返した段階で、勝敗は決していた。
返された呪いを更に強力にして返すことも、出来なくはない。
けれど、鬼が命をかけた最期の呪いだ。
それ以上を繰り出すことは不可能だろう。

そして全てが終わった時には、言葉の通り、その場には何一つ残されていなかった。

今、目にしている物全てが信じられない。
けれど俺の五感と、その先の六感が全力で「これは現実だ」と訴えかけていて。
胸に手をやると、その下に感じる心臓は早鐘を打っていた。

「貴様、名は?」

夜半の月の真澄鏡を背景に、その玲瓏とした声で問う。

名は訊ねた方から名乗るべきだ、と。
いつもなら、そう食って掛かっていただろう。
けれどこの時ばかりはそんな気は欠片も無く。

「大和、稔……」

俺は熱に浮かされたように、自分の名を正体不明の相手に告げていた。

「なるほど。大和、か」

「……ッ!」

突然アゴを掴まれ、驚いた俺は目を剥いた。
ひんやりとした手。勢い良く掴まれたせいで、その長い爪が頬に刺さり、皮膚を裂いた。

「貴様の命を救ったのは、この私。その命、今より私の物だ」

スッと、目を細める。

「我が名は華月。この名、けして忘れるな」

一瞬、月が雲に隠される。
そして再び光が差したとき、カヅキの姿は何処にも無かった。
残ったのは、カヅキの爪で出来た頬の傷だけ。

ようやく現実に帰ってきた。
その時、俺はそう思った。
けれど、あの身も凍るような強烈な神気。
忘れようったって、そうそう忘れられるもんじゃない。
ソレは既に身体に刻み込まれていて。


どうやらその時から俺はカヅキのモノになったらしい。
そして、強制的に弟子入りさせられたんだ。




知らないうちに寝ていたらしい。
正午にセットした目覚ましが鳴って、俺は目を覚ました。

身体中がだるくて、起き上がるのも面倒臭い。
けれど汗をかいたおかげで、シャツが肌に張り付いて気持ち悪い。

シャワーでも浴びるか。
汗臭い男は嫌われるって言うし。

シャツを脱ぎながらベッドを這い出る。
丸めたソレを投げ入れるのは、洗濯物の山。
コレもそろそろ処理しなくちゃならない。

カヅキは人間じゃないくせに、妙に人間臭い。
「洗濯物は溜めるな」「服は分類して片付けろ」と口煩い。
食事の件もだが、変な所で几帳面だ。
それに甘んじている俺もどうかと思うが、従わないとこっちの身が危うい。


因みに、カヅキの性別は今のところ不明だ。
その正体も。
本人に一度尋ねたことがあるが、鼻で笑ってかわされた。
その時のセリフが「私が何者かわかるようなら、貴様も一人前だな。最強クラスの能力者の完成だ」だと。

俺がカヅキの本当の銘を知る時。
きっとそれが、俺がカヅキから卒業する時だ。

けれどまだまだ先は長そうで、暫くは今のきっつい師弟関係が続くんだろう。
多分。