23.永遠


歯を喰いしばって嗚咽を噛み殺す真幸の背中を、佐倉は子供をあやすように優しく叩く。

「真幸……大丈夫だ……」

佐倉の言葉に、しかし、真幸は無言で首を振る。
もちろんそれは真幸を抱き込んだ胸の中で行われたことであって、彼女自身の表情は何一つとしてみることはできなかった。

このような真幸の姿を、過去にも何度か見たことがあった。
かつての家族との係わりがそうさせるのか、真幸は物事を全て自分で解決しようとする癖がある。
それが良いか悪いかを判断する立場に佐倉は無い。
けれど、多くを背負い込もうとする姿は、酷く苦いもののように感じられた。

薄暗い深夜のエレベーターホールで、引き攣れたような真幸の呼吸が時折聞こえる。
元より人の出入りの少ないフロアでもあり、訪れる人の姿は皆無だった。
その代わり、というわけではないだろうが、少しずつ、人以外のモノが集まり始める。

ざわついてくる周囲の気配に、佐倉は顔を上げる。
間近には寄ってこれずに居るが、二人の周りを飛び交う小妖精たち、協会本部に括られている精霊や式神。
皆、真幸の声無き声に引き寄せられたモノたちだ。
悲しみや苦しみには不浄が引き寄せられやすいが、彼らは違う。
真幸を心配し、慰めようと近寄ってくるものばかりだ。

呼び出した覚えの無い、異界に返したはずの佐倉自身の式神までもが、遠巻きに自分たちのことを見ており、どうしようもなくて佐倉は嘆息した。
人との契約下にある式神が、主の命なく現世に姿を現すということは、例えば契約主の危機といった状況の他は、よほど自我の強い高位の式以外には見られないことである。
もちろん、他者と契約している式神を呼び寄せるという行為も、そう簡単にできることではない。

(相変わらず、凄まじいな……)

かつて、悠斗によって封じられた真幸の『呼ぶ』力。
今も封じられたままのその力は、言葉の通り、他者を呼び寄せる能力だ。
真幸の意思を上回り、感情を受けて周囲は動き出す。
真幸本人にしてみれば周りを動かしているつもりはないのがろうが、それは引力と同じようなものだ。

過去から現在を撫でるように思い浮かべ、佐倉はゆっくり目を閉じた。
真幸を、こうも動揺させられる人間は、後にも先にも彼しかいないことに思い当たったからだ。




悠斗は天を仰いだ。

わかっている、これは自分のエゴだ。
真幸を護ろうと心に決めたのに、傷つけてばかり。

簀子の板にごろりと寝転べば、釣灯篭の明かりの向こう側に、大きな月。
鬼国であっても、東から昇った月は天頂にいたり、西の端へ沈む。
人の世と同じように、けれど人ではなく鬼の暮らす世界。

悠斗はゆっくりとまぶたを閉じる。
どちらも譲れない、大切な場所だ。

それから目を開けると、夜空と天井との間に、ぬっと舜の顔が滑り込んできた。
まるで気配を感じなかったが、舜とはそういう相手だ。
今更そんなことに驚いてもいられない。
何をか言おうと口を開きかけ、これと言って特に言うことも思いつかず、悠斗はおとなしく口を閉じる。
どこか気の抜けた悠斗の顔を見た舜は、ふん、と鼻で笑った。

「何を呆けておる」

「真幸にフラれた」

「阿呆」

侮蔑でも嘲りでもないが、同情も憐憫も無い。
本気で馬鹿にしているのだと悠斗が思う傍らに、舜はどすんと腰を下ろした。

民の前ではこの上なく優美な物腰を見せつつ、素の舜の行動は意外と粗野だ。
こればかりは本来の気質と言わんばかりに開き直る舜は、記憶の中にのみ知る若き日と変わりない。
そんな素の様を見せる相手も、おそらく悠斗しか居ないのだろう。

「後悔しておるのか、悠」

「どうかな、わからないよ」

「わからぬこともあるまい。そなたの心じゃ」

舜は手にした素焼きの酒瓶に直接口をつける。
中身は水かと思わせる飲みっぷりは、呆れて物も言えないほど。
その強さは、ほのかに風に乗った香で知れる。
匂いだけで酔いそうなそれから、悠斗はやんわりと顔を背けた。

「……自分の心ほど、わからないことは無いだろ」

「それはの、悠、そなたが未熟だからよ」

「結局、そこに行き着くんだな、舜は」

とぷん、と舜の手の中で酒の揺れる音がする。
視線だけを傍らにやれば、舜は立てた片膝に肘をつき、中空の月を見上げていた。
酒瓶を脇に置いた舜の横で悠斗はむくりと起き上がる。
それから高欄にもたれかかり、舜と同じように中空の月を見上げる。
若干の沈黙。
流れる雲が満月にかかり、あたりがふっと暗くなった。

「もしも……もしも、そなたをあの時に戻してやれると言ったら、悠、そなたは戻るか?」

言葉の表面だけ、声色だけを聞けば、それは全くの冗談にしか聞こえなかった。
何を言ってるんだ、と。
悠斗は舜を茶化しかけ、発しようとした言葉を飲み込んだ、笑みすらも。
薄暗がりの中で合ってしまった目が、恐ろしいほどに真っ直ぐだった。

普段なら合わせていられるその視線も、今の悠斗には居心地の悪いもので。
負けになること、全てを認めることを知りながら、悠斗は舜から目を逸らした。

「まさか」

「間が空いたな、悠」

「仕方ないだろ、この際」

ゆるゆると。
口元が自嘲の形へと変わるのを、悠斗ははっきりと自覚した。

あの時。
悠斗が、己の「業」の半分を真幸に負わせた日。

「仮定の話は、意味が無い」

「その通り。だが『あの時』さえ変われば、そなたらは今とは全く違った結果になっていたであろう」

「舜、本気で言ってるなら、殴るよ」

「殴れるものなら殴ってみよ」

「まだ死にたくない」

悠斗は長々と息を吐いた。
ゆっくりと雲が晴れ、ふたたび白々と月明かりが降り注ぐ。

「……今と違った結果、ね。ぞっとしないな」

悠斗は懐から煙草をを取り出し、くわえたその先を指先でするりと撫でる。
ライターを使わなくても、煙草の先には橙の火が灯った。

霊気の濃いこの鬼国では、咒・印無しに容易く術を発動させることができる。
もちろんのそれは現世と比べての話であり、各々のレベルによって出来る事は変わってくる。
悠斗クラスであれば、下級の火霊を従えて火を呼ぶこと程度は何の苦も無いこと。
それが普通になってしまった、この鬼の国の空気に馴染みだしてしまった己に、悠斗は感慨深いような、淋しさにも似た感情を覚えた。

「今更、手放せるわけないだろ」

「ならば、その誓いを貫き通すが良い」

舜の言葉を聞きながら、ゆっくりと、白煙を空に向かって吐き出す。
ふと、何がきっかけで自分は煙草を始めたのだったかと思う。
それをパッと思い出せず、悠斗は自分自身に苦笑した。
どうせろくでもない理由か、大したことのない理由だったのだ。

「で、そなた、あの娘には何と言って愛を告げたのだ?」

「……愛とか、恥ずかしいこと言うなよ」

「なんじゃ、違うのか」

「いや、別に違いやしないけど」

何故、舜とこのような会話をしなければならないのか。
こんな、思春期の少年少女が繰り広げるような会話を。
今まで以上の居心地の悪さを感じ、わざと舜の方へと煙を吐き出した。
正面から白煙をかぶった舜は、それとわかりやすい程に顔をしかめる。

「なんていうか、『愛』とか言うと、途端に薄っぺらく感じるのはなんでだ?」

「それはそなたが薄っぺらい『愛』しか知らぬからであろう?」

「成程、言いえて妙だ」

嫌がらせのように、頬へと酒瓶を押し付けてくる舜の手を必死に両手で押し返す。
実際に嫌がらせだろうということを、勿論悠斗は知っている。
悠斗が煙草を口にくわえたまま両手で抵抗するが、舜は片手で己の口元を覆っている。

「別に、今、こんなタイミングで言うつもりは無かったんだよ。まるで節操無しじゃないか」

「そなたの言い訳はどうでも良い。余には無駄と知っておろう」

酒瓶を押し付けるのをやめたかわり、今度は悠斗の肩へと腕を回してくる。
今日に限ってやけに絡んでくるのは何故だろうか。
また違った意味で天を仰ぎたいが、がっちりと押さえ込まれてそれも出来ない。
舜の振る舞いは絡み酒のそれそのものであるが、悠斗は舜がこの程度で酔わないことを知っている。
とうことを知っている舜は、おそらく、わざとそれらしく絡んでいるのだろう。

「……本当、言うつもりなんて全然無かったんだよ」

どうあっても言わずに解放してくれそうにはない。
悟った悠斗は、最後にうめいて観念した。




「結婚しよう」

その言葉に佐倉が、文字通りぴしりと固まるのを見た。
佐倉だけではない、真幸へとマカロンを差し出す給仕の式神も、一瞬動きを止めた。
彼が使役する式神は皆、常に冷静であることを知っている真幸は、これまた珍しいものを見たと感心する。

佐倉につれられて彼の部屋へ行き、シャワーを浴びた真幸は、既に平時の真幸に戻っていた。
真幸自身が、その切り替えの早さに自分で驚くほどに。
シンプルであるが、おそろしく高価であろうソファに堂々と座り、ローテーブルを挟んだ正面の佐倉を見る。

「……直人さん、こぼれる」

「ん、あぁ!」

真幸に言われ、初めて気付いたかのように佐倉はボトルの口を慌てて上向ける。
注がれていたシャンパンゴールドは、ぎりぎり表面張力によってグラスの縁からあふれることはなく。
それを見届けてから、真幸は指先で薔薇色のマカロンをひとつ、摘まんで口に放り込んだ。

「それは……悠斗君が真幸に言ったのか?」

「そうよ。馬鹿よね、あいつ」

「馬鹿ではないだろうが……それは、君をそれほどまでに悲嘆させるものか? いや、勿論、突然で驚いたということはあるかもしれないか。そうだな、突然かどうかは、知らないが」

感情的に饒舌な佐倉は、見たところ、随分と困惑しているらしい。
それもそれで珍しいことだと思いながら佐倉へと手を伸ばせば、新しく八分目までシャンパンを注いだグラスを手渡してくれる。
思えば、佐倉が真幸の飲酒を咎めたことは一度も無い。
それどころか、自分に初めてアルコールを与えたのも、佐倉だったように思えて仕方が無い。
はっきりと思い出せない過去を隅に追いやり、真幸は再びマカロンを摘まむ。
今度の色は抹茶色で、味も見目に反することなく抹茶。

「別に、悲嘆じゃなくて。多分、混乱してたんだと思う」

「……とても、そうは思えなかったがな」

「思っておいてくださいよ、会長」

視線を落とす。
混乱ということにして欲しい。
そう思って欲しかったし、そうだと思いたかったが、そう思い込める限度を超えていて。
佐倉の前で吐く嘘は、全て無力だ。

「まぁ、説明し難く、認め難いのが己の感情だがな」

佐倉をみやれば、彼は落胆したような、安心したような表情でゆるゆると笑った。
敵わないと、佐倉に対して真幸が思うのは、例えばこんな時。
空元気であったとしても、他者に弱みを見せまいとする姿勢が、平素の真幸。
それが戻っているのを、佐倉はわかったのだろう。

「……それにしても、真幸に会長と呼ばれるのは、いつまでたっても慣れないな」

ようやく全てを落ち着けたのだろうか。
ソファに身を沈めた佐倉は、細葉巻の先に火を点けた。

「じゃあ、『師匠』とか『先生』とか?」

「よしてくれ、気色の悪い」

「ひどい言われ様」

一息、吐く。

「とりあえず、悠斗が帰ってきたら、一発殴ってやろうと思って」

明日は、自分の家に帰ろう。
長く留守をするつもりではなかったから、きっと家の中は荒れ放題だ。
特に冷蔵庫を開けるのが怖くてならない。
それから、いい加減学校にも行こう。
ここまできて単位を落として留年になったら、それこそ笑い事じゃない。

結局のところ、この結末をつけるのは、当事者の自分達しかいない。
けれど今は、答えが出せないことはわかっている。
中途半端な悠斗が一番悪いということも。

「……一発じゃ足りないか」

「ほどほどにしてやれ。…………ところで、悠斗君には、その、何と答えるつもりなんだ?」

そう言う佐倉に。

「…………全面的に保留」

真幸はうめいてシャンパンをあおった。




+++++





耳元で、何かが弾ける音がした。
かしゃんと床に落ちる硬い音。
震える手で握っていたはずの携帯電話は、いつの間にか消えていた。

するすると、血の気が引いていくのがわかる。
身体の中を逆流する冷たい力。
押さえ込もうとくちびるを噛めば、口中に広がるのは鉄の味。

「っ……!!」

取られる。
本能的に感じた。

何者かに額を打ち抜かれたかのように、反り返った首。
薄暗い天井が視界を通り過ぎた。
崩れた足元、壁際に寄せられた円柱型のゴミ箱に、肩を強かに打ちつける。
それらは甲高い音で散らばり、真幸は壁にもたれるように身を落ち着けた。

耳の奥に、まだ彼の声が残っている。
けれど、しかし。
彼は何と言った?

「真幸っ!」

自分の名を呼ぶ声がした。
足音。
けれどそれも、遠いのか近いのかわからない。

無理矢理に腕を引かれ、視線が上がる。
薄暗い非常灯と足元灯を背に、見知った男の顔。
異様に乾いたくちびるで、その名を紡ぐ。
けれど言葉は声にならなかった。

結婚、だなんて。

もう一度、感情が逆巻く。
怖いと思った。
何もかも、自分をとりまく全てのものが、そして自分が。
涙が零れそうになり、ぎゅっと目を閉じた。

絶望的だ。

すがりついた佐倉から「ひと」のぬくもりを感じる。
ゆっくりと、その大きな手で頭を撫でられる。
自分の手が震えていることに気付いて、真幸は力の限り、佐倉のジャケットを握り締めた。
そうしなければ、嗚咽まで漏れてしまいそうだった。


例えば。
運命だとか宿命だといったものは存在する。
だがしかし、未来は決まっていると、はたして言えるのだろうか。

運命。
それを形作る個々人、息づく感情まで、それに支配されているのか。
自分の意志はどこまでが自分自身の意志なのか。
何者かによって決められた未来。
自分の行動のどこまでが運命とやらの支配下にあるのか。
考え始めると、怖くなった。

悠斗の感情は、どこまでか運命でどこからが悠斗自身の感情なのか。
答えが出ないことだということは、勿論わかっていた。