22.ふたり


こんな真幸を見るのは初めてだ。
煙草の灰を落としそうになりながら、佐倉は思った。

佐倉の式神達に拘束され、憔悴した表情の真幸。
彼女が本気になれば、この程度の結界を破るのは容易いはずだ。
それをせずに囚われているのは、彼女がそれを良しとするからだろう。

これ以上の抵抗は無いはずだ。
そう判断した佐倉は式神を異界へ還す。
拘束を解かれた真幸は一瞬よろめいたが、しかし自分の足で立っていた。

「協会が私闘を禁じているのは、何故だかわかるか?」

静かな語り口調で、真幸とその隣の恭也に問う。

「貴重な戦力を無駄にしたくないからだ」

下唇を噛んだまま立ち尽くす恭也が小さく頷く。
その様子を見て、佐倉は嘆息した。

能力者が戦闘に特化するということは、自分以外のモノを傷付ける手段を手にしていることに他ならない。
相手が人であろうが、人非ざるものであろうが、戦闘能力者が戦えば、かなりの確率でその相手を死に至らしめる。
彼らは、敵対するものを倒すのが役割だからだ。
そんな者同士が争えばどうなるか。

今回の騒動を持ちかけたのが恭也だということは既にわかっている。
その理由までは聞いていないが、規律を重んじる彼のことだ。
何か深いわけがあるのだろうと佐倉は思っていた。
それはこれから彼自身に語らせなければなるまい。

今度は真幸に視線を投げる。
普段は溢れんばかりの彼女の気概も、今は完全に鳴りを潜めていた。

「……真幸君。君は自分が何をしようとしたか、わかっているのか?」

真幸は俯くばかりで何も答えようとはしない。
彼女が情緒不安定になっているのは気付いていた。
彼女ならば自分で解決できるはずだと、暫く見守るつもりでいたのは佐倉の判断ミスだったか。

佐倉は煙草を灰皿に押し付け、椅子から立ち上がる。
そして真幸の前まで進むと、ゆっくりと腕を上げた。

パンッーー

「……っ」

乾いた音が静かな部屋に響いた。

見る間に赤くなっていく頬。
佐倉に平手で打たれたそこを押さえるでもなく、両手を下げたまま、やはり真幸はうなだれたままだった。

「少し、頭を冷やした方が良いようだ」

驚いたのは恭也であって、真幸と佐倉を交互に見遣る。
両者、一歩も動かない。
ジリジリと、場のプレッシャーだけが高まっていく。

けれどそれが頂点まで登りつめる前に、真幸が唇を一文字に結び直した。

「……失礼します」

隣に居たのでなければ聞き取れなかっただろう。
ほとんど口の中だけで言われた言葉。
その意味が投降なのか抵抗なのかはわからなかったが。

真幸が部屋を出て行く。
扉が完全に閉まったところで溜息を吐いたのは、佐倉も恭也も同じだった。
気まずさを感じたか、恭也は一瞬強張った表情を見せたが、佐倉は今更何も感じなかった。
ただ、異様に疲れただけだ。

「恭也君、とりあえず座れ。飲み物は紅茶で良いか?」

「あ、はい。いえ、お気遣い無く」

「まぁ、座ってくれ。私が欲しいんだ」

恭也を応接セットのソファに座らせ、佐倉は式神を呼んだ。




ポタポタと。
艶やかな髪の先から水滴が落ちる。
陶器の洗面台の縁を掴む両手は震えていた。
寒さのせいではないが、何故かはわからない。

駄目だ、まだ足りない。

右手はコックを捻る。
冷水は真幸の後頭部を打ち、髪を濡らして排水口へと流れていく。
少し角度をずらすと、水は首筋を伝って背を滑り落ちた。

「……格好悪」

口元が勝手に歪む。
自分で自分が制御できない。
みっともなくて、情けなくて涙が出そうだ。

『私は最早、以前の私じゃない』

真幸が自分の口で恭也に語った言葉。
思わず口をついて出たその言葉に、真幸自身が愕然とした。
自分は最早、以前の自分ではない。
恐ろしいのはそれが真実であり、事実であるからか。

水道から頭を離して水を止める。
そして濡れた髪を絞るが、それでは乾くに到底足りない。
頬に張り付いたサイドの髪を指で剥がし、真幸は鏡を覗き込んだ。

「……酷い顔」

そこに映り込むのは自分の姿。
水も滴るイイ女と、普段なら言うところだ。
けれどこんなにも疲れた表情では、その表現は全くそぐわない。
何よりアイラインが落ちて、目の周りが悲惨な状況だ。

真幸は備え付けのペーパータオルを二枚、三枚と重ねて引っ張り出す。
そしてこすらずに押さえつけるようにして顔の水滴を取っていった。
水分を含んだそれらは丸めてゴミ箱に捨て、新しく取った一枚を何度か折りたたむ。
その角の部分を少し濡らし、鏡を見ながら目の周りを丁寧に拭う。

「こんなもんか、な」

パンダ目だけはどうしても避けたい。
他にも眉が薄くなっているが、部屋に帰るまでの辛抱だ。
もう夜も遅く、これ以上誰かに会うことも無いだろう。

その場を離れ、真幸がエレベーターホールに立った時。
思い出したように携帯が鳴り響いた。




目の前で佐倉がカップに砂糖を入れ、口元に運ぶ。
恭也はミルクだけを入れ、スプーンで中身をかき混ぜた。
紅茶を口に含み、嚥下する。
熱いそれが食道を通って胃に落ちていくのがわかった。

「……どうしてこんな馬鹿な真似を?」

一息ついたところで、佐倉が尋ねる。
恭也はカップをテーブル上に戻し、膝の上に手を置く。
その動機を佐倉に語ることは非常に躊躇われた。
それがあまりに稚拙で、感情的なものだったことが理解できるからだ。

「規律違反に関しては、怒っていないと言えば嘘だな。でもそれより、その理由が聞きたい」

「……気に入らなかったんです、彼女が。見ていて苛々する」

手の平に爪が刺さった。
その痛みに、自分が無意識に手を握り締めていたことに気付く。

「でもあそこで会長が止めてくださらなければ、俺は確実に神城に殺されていました」

真幸が恭也に向かって銃口を定めた時。
次の瞬間には自分は確実に死ぬ、恭也はそう思った。
今までに感じたことの無いほどの鬼気。
真幸が浮かべた笑みは、間違いなく狂気であり。

そんな二人を横合いから押さえつけたのは、佐倉の式神たちだった。
一瞬にして結界に取り込まれ、その身を拘束される。
真幸は応戦しかけたようだったが、すぐに抵抗をやめて具現化していた銃を消した。
既に戦意を喪失していた恭也も大人しく従う。
そうして連れてこられた会長室、そこでは佐倉が一人煙草の火を見つめていた。

「君も真幸君も、失われてはいけない人間だ」

「それは違うでしょう。俺が死んでも織江が居ます。けれど神城の代わりはこの世界の何処にも居ない」

諭す佐倉に、反発するような言葉を投げ返す。

橘の人間は、恭也の他にも数多く居る。
恭也が橘の継承者であるのは、恭也がたまたま橘本家の長子に生まれたから。
能力者の中でかなりの高ランクに位置しているが、まだ相応の力を具備しているとは言えない。
全てにおいて相対的な順位で選ばれただけで、恭也に何かあれば次の者が後を継ぐはずだ。

しかし、真幸が真幸として存在する意味は、他の誰かが代わることは出来ない。
彼女は掛替えの無い存在になりつつある。

「君に死なれても困るさ。君が思うほど我々に時間は無い。皆がざわめき、警告を発している。今、この時期に君が『橘』の名を継ぐことも、悠斗君が『八州(やしま)』の後継となることも、全て意味がある」

「八嶋の御当主が……」

「彼らを支えること、それが私の一族と君の一族の役目だ」

「……だから、歯痒い。あの二人は俺達より遥かに強いのに」

真幸も悠斗も、恭也と佐倉など足元に及ばぬほどの力を秘めている。
経験の差など物ともしない、絶対的な力を持っている。

「でも人間なんだ。君や私と同じ」

佐倉の言うことは理解できるが、まだ納得は出来そうになかった。
それを口にすることなく、恭也は紅茶のカップを持ち上げた。




片手で二つ折りの携帯を開く。
着信は非通知で、相手が誰なのかわからない。
けれどこの仕事をしていれば、自分の身元を明かしたがらない依頼人も居る。
それゆえ、真幸はさして気にすることなく通話ボタンを押した。

「ハイ、神城です」

『真幸?』

「…………悠斗?」

その感情を、何と表せば良いのだろう。
切なさと苦しさと、怒りもあり、けれど喜びも確かにある。
意味不明なものがぐるぐると渦巻き、マーブリングになった。

『元気にやってる?』

「ん。アンタ、何処に居て何やってるのよ」

エレベーターのボタンを押すのを止め、壁にもたれかかる。
飾りのような細い窓の向こう側に新宿の夜景が見えた。

『……今は鬼国。舜に虐められてるよ』

「そんなのどうでもいい。いつ帰ってくるの?」

『多分、クリスマスまでには帰るよ』

今は十一月半ば。
先日、校長の方の佐倉が、悠斗は年内休職の予定だと言っていたのを思い出した。

「そう。まぁ、好きにしたら……」

『真幸?』

「ねぇ、一つ聞いて良い? アンタ……私が居なくなったら、その時どうする?」

口にしてから、馬鹿な問いだったと真幸は思う。
こんな仮定の話に意味なんかあるはずもないのに。
悠斗が何か言葉を発する前に、慌てて言葉を継ぐ。

「やっぱ今の無し。こっちは変わりなくやってるから安心して」

『なぁ、真幸……』

「何?」


『      』


一気に逆流した、それまで見失っていた感情が。
すとん、と身体中の力が抜ける。

世界は足元から崩れ、真幸は自分の足で立っていられなかった。




「……もう遅い。今日はこの辺りで終わらそう」

それまで饒舌に語っていた佐倉が、唐突に話を切り上げた。
驚いたのは恭也の方で、しかし彼がそう言うのなら従うしかない。
何か、自分は失礼な発言をしただろうか。
思い返してみるが、これといって心当たりも無い。

席を立った佐倉に続き、恭也は会長室を後にする。
このフロアには会長室の他には、秘書室と幾つかの理事室しかない。
理事は協会役員とは言え立派な能力者でもある為、本部を不在にすることも多い。
そうでなくても今は十二時を過ぎた夜中だ。
恭也と佐倉の他に、人の気配は無かった。

恭也はこのまま帰宅するため、エレベーターで地下駐車場まで降りなければならない。
一方の佐倉はこのビル上層の居住フロアに自宅がある為、帰宅するのにビルの外に出る必要は無い。
二人が一緒なのはエレベーターホールまでで、後はそこで挨拶をして別れるだけのはずだった。

しかし。

薄暗い非常灯と足元灯に照らされたそこに、真幸の姿があった。

思わず恭也は息を呑む。
彼女が普通に立っているだけなら、ここまで驚かなかっただろう。

真幸は、壁にもたれかかるようにして床に座り込んでいた。
その足元には、無残にも二つに割れた携帯電話。
凝った作りのビーズのストラップに見覚えがある、間違いなく彼女のものだ。
水を浴びたのか、髪は濡れ、色の濃いカットソーにシミを作っている。

「真幸!!」

いつも冷静な佐倉が高い声を出したことも驚きの一つだった。
そして彼が真幸を呼び捨てにしたことも。
今までに見たこともない慌てた様子で、佐倉は真幸に駆け寄る。
そしてその腕を取り、上体を起こさせた。

その時、一瞬見えた真幸の表情は、暗く、泣きそうなもの。
けれど恭也がそれを確認することは出来なかった。

顔を上げて佐倉の姿を確認した真幸は、そのまま佐倉に抱きついた。
両腕を佐倉の背にしっかりと回し、その胸に顔を埋める真幸。
その彼女の髪を優しく撫でる佐倉。
恭也はかける言葉を見つけられなかった。

タイミング良く、エレベーターのドアが開く。
中には誰も乗っていない。

「……恭也君」

「失礼します」

促されるまでもなく、恭也はやってきたエレベーターに乗り込む。
自分がこの場に居ても、全員が気まずい思いをするだけだ。
佐倉に頭を下げてから、恭也は閉ボタンを押した。

下降する一人きりの空間で、溜息を吐く。
真幸と佐倉の間には、何か自分の知らない関係があるらしい。
無論、自分が全ての関わりを知っているわけではないことくらい理解している。
そうではなく、もっと根本的な何か。

佐倉の背に回された、ほっそりとした手を思い出す。
嗚咽は無かったが、その手が小さく震えていたことに恭也は気付いた。