20.モノクロ


朝、目が覚める。
それ自体は毎日繰り返されることであって、何も特別なことはない。
時計を見ると、既に朝礼には間に合わないであろう時刻であった。
こんなことも概ね良くあることで、別段焦ることなく朝食の支度に取りかかる。
トースターに食パンを入れ、卵は今朝の気分で目玉焼き、否、片目焼き。
ラジオを流しながら簡単に食事を済ませ、洗顔の後は今日の服を決める為にクローゼットの前に立つ。

聖陵高校の規則は、自律性を重んじる為という名目で基本的に緩い。
服装規定も、「標準服またはそれに準ずる制服を着用すること」程度だ。
行き過ぎないように風紀委員が目を光らせているが、金髪茶髪にピアスも普通に認められている。
彼らが注視しているのは、服装よりも行動。
おかげで傍目には、様々な学校の生徒が校舎内をうろついているように見える。

午前十時。
一・二時間目を犠牲にシャワーを浴び、三時間目の授業に間に合うように家を出る。
記憶が正しければ、三時間目は生物だ。
仮に間違っていたとしても、ロッカーにほとんどの教科書が眠っているので、さして問題は無い。
買い換えたばかりの自転車にまたがりペダルを踏み込んだ。
いつもの通学路、いつもよりも少し遅い時間帯。
いつもと同じだけの時間をかけて学校にたどり着く。
裏門側にある生徒用の駐輪場に自転車を留めると、真幸はやけに軽い鞄を肩にかけて校舎へと向かった。

昨晩は良く眠れなかったので、シャワーを浴びてきたにも関わらず、まだ頭がどこかボンヤリしている。
その理由はハッキリしている、考えるのも馬鹿らしいほどに。
考えまいと、忘れようと、思えば思うほどに。

(駄目ね、思考が支離滅裂)

溜息すら出ない。

季節は霜月。
校庭で行われている体育の授業の参加者は、皆ジャージ姿。
通り過ぎようとして、ジャージの群れの中に見慣れた顔を見つけた。
しかも真幸を見つけるや否や、その人物は授業中であるにも関わらず、真幸のもとへと駆け寄って来る。

「お姉さまぁ、おはようございますー」

「ユイ、授業中。古谷先生がこっち睨んでる」

「でもお姉さまに聞きたいことがあって……どういうことなんですか?だって……」

唯の言葉が真幸の耳朶を打つ。

「……何ソレ」

支離滅裂だった思考は、今や停止寸前だった。




階段を駆け上がり、荒々しい足取りで廊下を突き進む。
向かうのは三年の自分の教室ではなく、二階にある職員室と隣の校長室である。
礼を失するのを承知の上で、敢えてノック無しに校長室のドアを開けた。

果たして、目的の佐倉校長はそこに間違いなく居た。
ポロシャツの上にアーガイルのセーター、足元はサンダルと、とても校長には見えない好々爺たる彼。
突然の真幸の出現に動じることも無く、今日は珍しいことに机上の書類と向き合っている。
そして一瞬上げた視線で真幸の姿を確認した。

いつもと何ら変わりの無い様子が一層真幸の神経を逆なでする。
まるで全て見透かされている様で。

「茶は出さんよ」

いつもそうだ、自分は「彼等」に試され、天秤に乗せられている。
気付いても変えようの無い事実は、それだけで真幸の未熟さを知らしめていて。

それは、力を手に入れても縮むことの無い、生きてきた時間という名の絶対的な差。

「……悠斗が休職って、どういうこと?」

「どうもこうも、言葉の通り休職は休職だろう」

「そんなこと聞いてるんじゃない!! 私に何の断りも無く、こんな、突然」

甲高くなった声を、真幸は努めて平常に戻す。
みっともなく喚いて醜態を晒すのは大人気ない。

「こっちは前々から聞いとる。それに、何だ、悠斗君は休暇を取るのにも君の許可が必要かね?」

「それは、違う、でも……」

言葉を紡ぐたび、自分が追い詰められていく気がしてならない。
沸々と湧いてくるのは、或いは怒りだろうか。
真幸の中で渦巻く焦燥にも似た感情は、その出口を見失った。

真幸と悠斗の関係は、一般的な言葉で表すには少々複雑である。
家族と呼ぶには互いを知らず、師弟と言えるほど何かを習った記憶も無く。
そして、恋人と呼ぶには未だ遠く。
遠くの親戚ではない近くの他人、もしくは同志。
「特別」な相手であることは認めるが、それは「絶対」ではない。

悠斗が自分の行動に真幸の了承を得る必要は無く、真幸だって己のことを逐一悠斗に報告しているわけではない。
ただ、真幸が隠したいと思っていること以外は、何故か悠斗は何時の間にか知っている。
真幸は悠斗のプライベートをさほど知らない。
けれどそれは昔からのことであり、それでも、その時々の彼の喜怒哀楽以上の機微を感じているのは確かだ。

「悠斗君は、八嶋先生は年内一杯休職。理由は聞いておらん」

「……聞いてないんじゃなくて、聞けなかったか……聞かなくても知ってたんじゃないの?」

抵抗と言うには、ささやか過ぎる言葉。
長く伸びた白い眉毛の下で、校長のくすんだ灰色の目が光る。

「否定はせんよ。ところで大学の件はどうするかね? このまま進めてしまっても?」

「……好きにして」

泣き叫んで、感情を爆発させることが出来たら、どれほど楽だろうか。
けれど、それを今ここでやってのけることができるほど、真幸のプライドは低くないし、まして子供でもなかった。
圧倒的な敗北感だけを抱えつつ、真幸はその場を後にした。

今日は、学校で授業に出なければならなかったのに。
中間試験の答案が返却されるはずなので、少なくとも終礼には顔を出そうと思っていたのに。
そんな気持ちは跡形も無く何処かへ消え失せてしまっていた。
真幸はやけに空虚になった心を抱えながら、今来たばかりの道を引き返す。
足取りは心なしか重く。

自転車置き場まで戻り自転車の鍵を外すが、今日はいつものようにサドルには座らない。
今の状態で自転車に乗ったら、間違いなく自分は事故を起こす。
そんな、ある意味どうでも良いことを考える余裕はあった。
前カゴに鞄を投げ入れ、ゆっくりと押しながら裏門を通り抜けた。




+ + + + +



人の気配の無い寒い場所だ、その部屋に入って思った。
誰も住まない家はこのようなものと、真幸は知っている。

一体いつから今日のことを計画していたのだろう。
部屋の中は綺麗に片付けられ、冷蔵庫は空っぽで、洗濯物も溜まってはいなかった。
いつもは絶対にしない、ホテルのようなベッドメイキング。
昨夜自分に口付けた彼はここで寝ただろうに、その形跡は全く無いと言っても過言ではない。

「……何……何なのよ……」

ぎりっ、と奥歯が鳴るほど噛み締める。
一人では泣くことすら出来ない真幸は、ただ独り立ち尽くすだけだ。

「私は、アンタにとって何なの……悠斗ぉ……っ」




その日真幸は初めて、世界が「イロ」を失う瞬間というものを知った。

それは、足元の地面が消えうせるというよりも、モノクロフィルムの映画館に放り込まれたような感覚だった。

つまり世界は自分から隔絶され、ぬくもりを失った。

そんな中、それでも真幸はその両の足で立っていた。