19.予定外の出来事


悠斗がステアリングを握る車の助手席に、真幸はゆったりと身を沈めている。
カーステレオから響いてくるのは英国の男性ロックバンド。
無論、悠斗の趣味ではなく、真幸が己の趣味を詰め込んだMDを持参したまでのこと。
悠斗は基本的に車内ではラジオしか聞かないのだが、真幸の行動に特に異論を放つことはしなかった。
敢えて、場の雰囲気を壊すような真似はしない。
それは愚行であり、無粋というものだ。

秋の行楽シーズンかつ祝日であり、フリーウェイでもハイウェイでもない日本版アウトバーンは、望むような高速では流れない。
それに悠斗は耐え、けれど新しい煙草に火を点けた。
細く開けた窓から煙は流れ出てゆき、その隣で真幸は、先ほど立ち寄ったパーキングエリアで買った珈琲の缶を開けた。

会話をすることは、とうに諦めている。

二人の間に流れる言葉の無い空気を楽しむのは、あるいは、悠斗だけかもしれない。
真幸が何を考えているのかは、彼女の言葉によってのみ知ることが出来る。
現状は、悠斗の自己満足であるのかもしれず、それを確かめる術は悠斗には無い。

真幸が眺める空は青く澄み、高く、遠い。




結果はもはや気にならない中間試験は無事に終わった。
無事かどうかは真幸の主観的な判断であって、客観的には壊滅的である可能性も否定できない。
真幸の携帯に悠斗から電話があったのは、そんな試験最終日の夜だった。

ベッドに転がって雑誌を読んでいた真幸は、記事から目を離さずに傍らの携帯を手に取る。
鳴り続ける携帯を見、何の警戒も無く通話ボタンを押した。

『今度の祝日、空いてるか?』

「別に空いてるけど……何かあるの?」

『暇だったら一緒に何処か行かないかって誘い』

珍しいこともあるものだと思いながら、ごろりと仰向けになって天井を睨み付ける。
壁にかけたカレンダーに目をやっても、そこには何の予定も書き込まれていない。
もっともそれは、もとより真幸がカレンダーにスケジュールを記載しない性質だからなのだが。

「何処に行くの?」

『真幸の好きな所?』

質問には質問が返ってくる。
それは誘いではなく予約ではないか、と思っても口にはせず。

『行きたい所とか、無いのか?』

いきなり聞かれても困るが、唐突であって相手を困らせるという点では、おそらく真幸も同様であるから文句は言えない。
ならばどうするのかと言えば、思い浮かぶことは幾つか。
一つ目は、行きたい所は無いと言ってこの話自体を終わらせること。
これは問題外だ。
二つ目は、希望は無いと言って悠斗に行き先を考えさせること。
悠斗が自分を何処に連れて行くのか興味深いが、それはそれで先が読めずに不愉快である。
三つ目は、素直に自分が案を出すと言うこと。

「……山とか」

真幸が目をやったカレンダー。
その霜月の写真は、湖に映える色とりどりの紅葉。

『山って……登るのか?真幸が?』

「違うわよ。紅葉、見たいなって思って。そろそろシーズンだし」

『わかった。じゃあ朝八時頃に迎えに行くから、そのつもりで』

「え、本気なの?」

焦ったのは真幸の方だった。
二人で出掛けるのは、非常に久しぶりのことであって。

電話越しに聞こえてくるのは、いつもと変わりのない悠斗の声。
その向こうで彼がどんな顔をしているのか、それは全くわからない。
顔が見たいというよりも、どんな表情をしているのかが知りたい。

『そりゃ、本気だよ。それとも朝早過ぎる?』

「平気。八時ね、わかった」

悠斗との電話が終わった後でも、真幸は片手に携帯を握ったまま、天井をぼんやりと眺めていた。
そして、少し浮かれている自分に気付いて、うつ伏せになって枕に顔を埋めた。




+ + + + +



車は山道に入り、スピードを落とした悠斗はステアリングを左に切る。
駐車場は既に家族連れの車やツアーの大型観光バスが何台も止まっている。
空いた場所を探しながら、車は奥へと徐行していった。

「この時期は混んでるなぁ」

「まぁ、そうでしょうね。あ、あそこ空いてる」

真幸が指で示すと、悠斗はあっさりと一度で車をそこに収める。
真幸は無駄に器用だと思いつつ、それでも邪魔になるものでもないかと思い直す。
悠斗に言わせれば「格好良いから良い」だそうだが、それにしては気を使う箇所が稀におかしい。
肝心なコトを言わないのは自身と似ているが、その理由は若干異なるように真幸は感じていた。

「忘れ物するなよ」

「たいして荷物無いから」

頷き、後部座席に置いた上着と小さなバッグを手に取って車から降りた。
天気が良く暖かいので、上着は羽織らずに手に持ったまま、バッグの中身を確認する。
中に入っているのは、ハンカチに化粧ポーチ、そして携帯とデジカメ。
財布は必要無い気もしたが、全く持たずに居るのも不安なので一応入っている。

後から到着したツアー客を避けるように、二人は連れ立って遊歩道へと向かう。
別に恋人同士ではないから、手など繋がない。
ただ、普通に歩くよりも少しだけ近く、隣を歩く。

「綺麗ね……」

色とりどりの紅葉のトンネル、降り注ぐ光はやわらかく。
見上げながら歩くので、自然、歩調はゆっくりとしたものとなる。
代わりに足元に注意するのは悠斗の方で、もし倒れたら支えられる位置に居るのはその為か。

触れられる場所に居るが、未だ触れ合うことはない。
それは、今の二人の距離を表しているようでもあって。

突然、腕を引かれた。
何事かと思い悠斗を振り仰ぐと、真幸の腕を掴んでいるのとは逆の手が近付いてくる。

「じっとして」

耳元で、カサリと音がする。
離れていく悠斗の手には、紅の楓の葉。

「ちょっとした飾りではあるけど」

「あぁ……ありがと」

髪を飾った紅葉は、悠斗の手を経て真幸に渡される。
それを指先でくるくる回しながら光に透かす。

「帰って、栞にでもする」

それは、持ち帰る為の口実であったかもしれない。
ハンカチの間に挟んで、真幸はそっとバッグの中に仕舞った。




肩が触れそうな距離で歩きながら、ゆっくりと山道を登って行く。
上る話題と言えば、最近読んだ本だとか、新聞で読んだ海外情勢だとか、意外と硬い。
時に封切り前の映画なども口にするが、観に行こうという話にはならなかった。
ただ、無粋な仕事の話も学校の話も無かった。

時折立ち止まりながら、カメラのシャッターを切る。
真幸の撮るのは風景ばかりで、そのフレームに人は入らない。
ファインダーを覗く真幸を、悠斗は一人後ろから眺めていた。

人よりもゆっくりと、倍の時間をかけて、見晴らしの良い展望台に辿り着く。
優美に流れ落ちる滝、それを縁取る錦。
散って尚、渓流にて流れ紅葉となり、景色に彩りを加える様は自然の賜物。
柵から身を乗り出して手を伸ばせば、指先には飛沫がかかりそうであって。

「マイナスイオンたっぷりじゃない?」

捻くれた率直な感想を言いながら、真幸は滝に向かって手を差し伸べる。
あまり見ない、無邪気とも言える姿。
悠斗は苦笑して、そんな真幸の頭をクシャクシャに撫で回した。

「ちょっと」

「カメラ貸して。せっかくだから、一枚くらい撮っておきなよ」

抗議しながら乱れた髪を手櫛で直す様子も、悠斗の目には微笑ましく映った。
宥めながらカメラを奪い取り、一際景色の良い場所へと真幸の背を押す。
渋々それに従った真幸は、木柵にもたれかかりながら悠斗の方を向いた。

「撮るよ」

ファインダー越しの真幸の笑みは、とても眩しく見えた。
息を飲むのは一瞬で、いつもの様に唇に笑みを乗せることに成功する。

「ありがと」

いつも通りの真幸は悠斗からデジカメを受け取り、すぐさま今の写真の出来を確認する。
カメラを扱った記憶のあまり無い悠斗は、一緒になってそれを覗き込んだ。

「中々良く撮れてる。まぁ、元が良いからね」

「俺の腕は?」

「カメラの性能でしょ」

笑い。
しばらく、こんな風に二人で笑っていなかった。

真幸が晃の霊力を封じた、あの夜から一月程。
その間の、どこか余所余所しい空気を悠斗は思い出す。

このところ、学校で顔を合わせることはあっても、二人で会うことを避けていた。
真幸とは親戚関係であると説明してあるが――若干の語弊はあるものの概ね事実であり、校長もそれは承知している――妙なウワサが広まるのは好ましくない。
けれどそれとは別な、一歩引いたような真幸の態度。
その要因を確定するには、判断材料が足りなかった。
けれど。

オバサマ方のグループ写真を撮って差し上げるのと引き換えに、撮ってもらった真幸とのツーショット写真。
その時、肩に載せた手は振り払われることはなく。

それを撮ったのは真幸のカメラであり、焼き増ししてもらえるかが目下の問題となった。




+ + + + +



夜、暗がりに紛れるようにして帰宅する。
人目を避けているわけではないが、立場を考えると、あまり大っぴらにできないのも事実である。

マンションの敷地内の駐車場に車を停める。
自分の荷物を持って車から降り、二人、連れ立って歩く。
それぞれに別の郵便受けを覗き込み、エレベーターの前で顔を合わせる。

上昇する密閉空間で、真幸が口を開く。

「今日は、ありがと。連れてってくれて」

「誘ったのは俺だから。付き合ってくれてありがとう」

交わされる視線。
再び言葉を発しようと口を開きかけた時、エレベーターは七階で停まる。
この刹那を名残惜しいと思って欲しい、何故か悠斗はそんなことを感じた。

「……それじゃ、お休みなさい」

目の前で閉じようとする扉を、悠斗は自らの身体を間に挟むことで押し留めた。
そして力強く真幸の腕を引く。
覚える既視感。
あの時、抑えた自分を思い出す。

「悠……」

かすめるようにして、その唇を奪う。
実際に触れ合っていたのは一瞬。
後は、触れるか触れないか、息がかかりそうな距離。
覗き込んだ真幸の瞳には、悠斗の姿が映りこんでいた。

長い様で、おそらくは数秒の沈黙。

搾り出すような、かすれた真幸の声。
エレベーターの中へと戻る悠斗の身体。
真幸の指が悠斗の胸を軽く押し返していた。

「教師が、生徒に手ぇ出してんじゃないわよ……」

口から出るのは、カオとは裏腹な言葉。
けれど瞳は雄弁にその感情を語っている。

「……オヤスミ」

目の前で閉じる扉。
一人になった狭い箱の中で、壁にもたれた悠斗は長い溜息を吐いた。
こんなことは、悠斗にとっても真幸にとっても予定外で。

けれど、真幸にとっての本当の予定外の出来事は、おそらくこれから始まるのだろう。