16.涙


いつもの様に、一番後ろの出入口に近い席に座って彼を待つ。
ここならば教室に誰が入って来ても見落とすことは無い。
彼と知り合ってから随分経つが、奈美は未だに胸が高鳴るのを抑えられないでいる。

授業開始時刻が近付くにつれ、段々と教室は人が増えていく。
秋も深まってきたこの頃、同時に近付いてくるのは大学受験という人生の関門の一つでもあって。
室内はけして気楽な空気ではなく、皆、自分の事で精一杯なのだろう。

始業五分前。
ようやく奈美の待ち人が姿を現した。

「あ……」

小さく声が漏れる。

三つ前の席に荷物を置いた彼は、奈美のことなど欠片も気にかけない。
ただ、隣に並んでいた彼女だけが、奈美の呟きを気に留めた。
微かに交差した彼女の眼差しは、まるで奈美を憐れむかのようだった。
もちろんそれは奈美の思い過ごしかもしれないが。

『ねぇ、コピー機ってあるの? テキスト、コピーしたいんだけど』

『下のロビーにあるから、荷物置いてさっさと行こうぜ。もうすぐ授業始まるぞ』

『そう。じゃあ急ぎますか』

再び奈美の脇を通り、二人は仲良く連れ立って教室を出て行った。

(あんな、キレイな子に勝てるわけない……)

軽くシャギーの入った髪は肩に付く位の長さで、羨ましくなる程に真っ直ぐでサラサラ。
身長は160ちょっとだろうか。
下品でない程度に短いスカートから伸びる足はほっそりとしており、スタイルの良さを強調しているかのようだ。
ゆったりとした白のセーターに淡い青のシャツ、少しルーズにした襟元。全体のコーディネイトから、センスの良さが窺い知れた。
顔立ちもさることながら、彼女はとても目立つ雰囲気をその身にまとっていた。

天は二物を与えず、そんな言葉が奈美の頭に浮かんだ。
けれど、彼と共に居る彼女はどうだ。
この予備校に居るくらいだから、勉強の出来る彼と一緒に居るくらいだから、頭も良いのだろう。
地味でお洒落を気にかける暇も無く、ガリ勉してようやく此処に居る自分とは大違いだ。

手の甲に涙が落ちる。
いつのまにか始まっていた授業は、もはや奈美の耳に届くものでは無かった。




+ + + + +



放課後の第二進路指導室。珍しいことに、今日は真幸の他に誰の姿も見えない。
真幸やランスや唯、早い話が晃以外の心霊対策委員会のメンバーのファン達の姿も無い。
誰も彼も文化祭前でよっぽど忙しいらしい。
そんな一般生徒と異なり、真幸が一番忙しくなるのは、全ての準備が整った前日から当日の朝だ。
過去二回の経験からして、半ば徹夜での結界の確認作業が真幸を待っている。

(今年はランスとユイが居るし、まだマシなのかしら……?)

このテの作業に向いていない二人がどれだけ使えるのか。
場合によっては、一方的に真幸の負担が増えるだけかもしれない。
それもまた「先輩」としては仕方の無いことだ。

大きく吐いた溜息にかぶるようにして、部屋の戸が叩かれる。
「どうぞ」とだけ答えると、ノックの主は戸を開けて室内に入ってきた。

元は進路指導室、実質資料室、現心霊対策委員会の溜まり場であるこの部屋は、入り口近くに本棚が並べてあって、入り口から中に居る人間を直接に確認することは出来ない。
同様に、中に居る人間からも、訪れた人物を特定することは出来ない。
本棚の間を抜けて現れた生徒に、真幸は嫌そうな顔を隠しもせず、かつあっさりと視線を外した。

「神城、ちょっといいか?」

「イヤ」

即答で素気無く断られたにも関わらず、それでも彼は諦めなかった。
それだけ切迫しているのか、それとも単に諦めが悪いのか。
もし相手が女子ならば真幸は前者と考えるだろう。
そもそも女子に話しかけられて、耳を貸さない彼女ではない。
けれど相手が男子だったなら、相手をしてもらえるかは、その時の真幸の機嫌次第だ。

「頼むから話くらい聞いてくれよ」

「面倒臭いからイヤ」

「聞くくらいならいいだろ!!」

めでたく真幸の中の「諦めの悪い男・ナンバー2」に認定された彼、高柳修一は真幸に食い下がる。
机に手をついて懇願するが、当然真幸がそれに心を動かされることもなく。

携帯のメールをチェックしながら、それ以上真幸が言葉を発することは無い。
その姿に業を煮やしたか、それともようやく諦めという言葉を学んだか。
高柳は盛大に舌打ちすると、荒々しく踵を返し、部屋を出ていった。
それを見てから、やれやれと言わんばかりに真幸は大きく伸びをした。

それから二十分ほど経った、茜色に染まる空を見た真幸がそろそろ帰るかと考え始めた頃。
今度は前触れ無く、ガタンと大きな音を立てて戸が開けられた。
気怠そうに顔を上げると、そこには先ほどと同じ男の顔。

無視しよう。
真幸はそう心に決め、携帯を鞄の中に仕舞い込む。
そしてそのまま高柳の横をすり抜けようとして。

「……何よ」

進路を遮るように、真幸の胸の前に一通の封筒が突き出される。
高柳はそれを押し付けるように真幸の手に握らせた。

「時は金なり、なんだろ。それで、話くらいは、聞けよ」

走って戻ってきたのか、かなり息が荒い。
押し付けられた封筒は駅前に支店がある銀行のもので、開けてみると中には福沢諭吉が数枚入っていた。

「必要だっつうなら、まだ金は出せる」

「……そこ、座れば」

あごで目の前のパイプ椅子を示す。
真幸自身も持っていた鞄と封筒を置き、それまで座っていた椅子に再び腰を下ろした。
体重を受け止めたパイプがギシリと音を立て、それが静かな室内に響く。
福沢諭吉の入った封筒は、二人の間に置かれたまま。

(あーあ、めんどくさ……)

真幸は心の中で大きく息を吐く。
最近、こんなことばかりだ。

基本的に真幸がタダで相談を受けるのは女子だけで、男子には様々なモノを報酬として請求している。
だがしかし、真幸は守銭奴ではない。
一人暮らしとはいえ海外の両親からしっかりと仕送りはあるし、何より協会から回される仕事の報酬だけで、並みのサラリーマンの月給を軽く超える。
無論、それだけ支出も多いのだが、けして金銭に困っているわけではない。
つまり彼らに要求したいのは金ではなく、宿題や掃除の肩代わりだとか、金がかかるものでは昼食一週間分だとか、真幸の学校生活を楽にするような、そんなモノだ。
それが容赦無いとたまに提言されるが、それでも所謂相場からはかけ離れる。

真幸の目の前の高柳という男。
学年で一桁に入る秀才であり、顔も良いから女子にも人気がある。
だがそれを自分で自覚して鼻にかけている節があり、つまり真幸の気に入らないタイプなのだ。
それでも、相応の代価を支払っての依頼であれば、その時点で高柳は既に客である。
気に入らない客など、それこそ星の数ほど居た。

「話、聞きましょうか」

真幸の目の前に座った高柳は、どこか落ち着かない様子で視線を左右に動かしている。
初めてこういった面倒事を相談する人間は、大体こんなものだ。
どこから話せばいいのか悩んでいる。

「……何から話せば良いんだよ」

「一番最初からに決まってるでしょうが」

呆れるように返したら、高柳は疲れたように息を漏らした。
この場合、溜息を吐きたいのは真幸の方だ。

「最初は、今から一ヶ月くらい前。生まれて初めて金縛りにあった。そん時は泣き声みたいのが聞こえて、気が付いたら朝だった」

そんなの、よくある心霊体験じゃない。
口をついて出そうになるが、それは心の中だけに留めておく。
こんなことにいちいち突っ込んではいられない。

「それからは二日に一度は金縛りにあうし、ずっと誰かに見られてる気がするし、一体何なんだ!? 予備校行きゃエレベータは突然止まるは、階段からは落ちそうになるは、こんなんでどうやったら勉強に集中できんだよ。受験前の大事な時期だってのに、何かあったらどうしてくれんだ」

「つまり、メインは金縛りで、最近になって他の霊障がエスカレートしてきたと? それだけ? 他にもっと無いの?」

「他にって、こんだけあれば充分だろう!?」

「全部気のせいじゃないの? 金縛りは霊が原因じゃなくても起きることだし、そんな状態なら泣き声だって定かじゃない。見られてるっていうのは、実際にアンタを好きな子が見てるのかもしれないし。そうじゃなきゃ自意識過剰? エレベータが止まったのは整備不良で、金縛りで睡眠不足なら階段から落ちそうにもなるでしょ」

同情の欠片すら無い真幸の様子に、高柳は明らかに苛立ったようだった。

「そこまで言うんなら証拠を見せてやるよ!!」

そう高らかに宣言した高柳は突然立ち上がる。
何をするのかと見ていると、彼はおもむろにネクタイを外してシャツのボタンを外し始めた。
真幸は驚きに目を見張る。
もちろん、何かしようものなら張り倒す準備は出来ている。

「……見ろよ」

椅子に座ったまま思わず後ろに退いた真幸の前に高柳が立つ。
はだけたシャツの下、素肌の胸と首筋に、しっかりと手の形に赤黒い痣が残されていた。
胸を押しつぶすように、首に絡みつくように。

「胸の方は、昨日。寝苦しくて、気付いたら残ってた。首は……今朝、首を絞められる夢を見たら……」

まじまじと、その痕を見やる。
夕日が差し込む窓際で、真幸から高柳の表情は良くわからなかった。

高柳の胸の痣に思わず手を伸ばし、そこに触れる前に真幸は慌てて手を引っ込めた。
実際に合わせなくてもわかる。
真幸よりも、一回りほど小さいその痕。
子供の手というよりは、小柄な女の手によるものと考える方が妥当だ。

「小柄な女。心当たりは?」

「……無ぇよ」

短く答えると、真幸に背を向けてシャツのボタンを留め始める。

(ウソね、当然)

どうせ、ロクでも無いことをやらかしているのだ。
そう決め付けるのは、何も偏見によるものではない。
女の子のウワサ話から捏造部分を消去しての推測だ。

「……予備校って、何処?」

「渋谷のK予備校だけど……やっぱあそこに何かあんのか?」

「そんなの知らないわよ。でも予備校でも色々起きたんでしょ?」

翌日の放課後にその予備校の授業見学に行くことにし、真幸は高柳を部屋から追い出した。
銀行の封筒は机上に残されたまま。
それを指先でつまみ上げ、溜息をこぼしながらブレザーの内ポケットにそっと滑り込ませた。
かわりに携帯電話を引っ張り出し、登録したメモリの中から協会の受付を呼び出す。
コール音は二回、すぐにオペレーターが電話口に現れる。

「……IDコード・A0108−WXX15、登録名・神城真幸」

『確認しました。神城様、本日はどのようなご用件でしょう』

「さっきメールで流れてきた依頼リストの中に、渋谷の予備校で怪奇現象が起こってるって話、ありましたよね?」

電話の向こうでカタカタとキーボードを叩く音が聞こえる。

『【NO.66371−E】ですね。渋谷のK予備校で一月前から霊障と思われる現象が複数確認されています』

「まだ空いてます? 空いてたら、それ欲しいんですが」

『はい、担当は未定です。けれど、こちらの件はカテゴリーEですので、前金無しで経費も認められませんし、成功報酬もかなり低くなりますが、よろしいのですか?』

「えぇ、構いません。資料は自宅の方にFAXしてもらえますか?」

『わかりました。そのように手配しておきます。それでは、本件もよろしくお願い致します』

電話が切られる。窓の外はすでに暗くなっていて、西の空の際にうっすらとオレンジ色が残されていた。

(さて、どっちが原因なのかしら……?)

背もたれに体重を預けると、再び椅子がきしんだ。




+ + + + +



「なぁ神城、何かわかったのか?」

「んー、単にどっかで浮幽霊拾ったみたいね。明日からは何も無いようにするわ」

見学と偽り、十月にもなって見学も無いだろうが、件のK予備校の授業に潜り込んだ真幸。
難関校向けクラスの授業は、真幸には全く理解不能だったことを記しておく。
授業を聞く振りをしながら、じっと冷たい視線に耐えていたのだ。
クラスの女子生徒からのものと、それ以外のものと。

「本当か?」

「本当よ」

そう答えつつ、頭の中で真幸は高柳に憑いている霊達をどうやって処理するか考えていた。
予備校から渋谷駅に向かってぶらぶらと歩く。
上の空であった真幸は、急に立ち止まった高柳の背中にぶつかった。

「お前さぁ、二年のランスロットって奴と付き合ってるのか?」

「はぁ? んなわけないでしょうが。ランスはただの後輩よ」

突然の話題に面食らう。
問題が解消したと聞いて浮かれているのだろうか。
真幸の腕を取って自分の方に引き寄せてきた。
それに渋面を作るが、高柳は気にする様子も無い。

「なら、俺と付き合わないか? お前みたいな強気な女も好きだし、美男美女でお似合いじゃねぇ?」

「冗談。誰がアンタみたいなのと。それにねぇ……」

「そういうのは間に合ってるんだよね、サキ」

「……お前、何でこんな所に」

古典漫画の王子役よろしく現れたのは、先ほど話題に上がったばかりのランスだった。
「脈絡も無く」と思うのは高柳だけで、「遅いわよ」と心の中で文句を言うのはこっそりランスを呼び出していた真幸だ。
ランスは真幸を引き寄せる高柳の腕を掴むと、そのまま軽く捻り上げる。
情け無い悲鳴が高柳の口からこぼれるが、ランスは涼しい顔のままだ。

「な、んだよ。付き合ってるヤツが居ねぇなら、別にいいじゃねぇか」

ようやく解放されてその場に座り込んだ高柳は、腕を抱えながら真幸とランスに向かって吐き捨てる。
その姿はどう見ても負け犬のそれで、怒りも呆れも通り越し、溜息が出るばかりだった。

「高柳センパイ、だっけ。サキはセンパイの手に負えるような女の子じゃないし、センパイには勿体無いよ」

「畜生、お前等やっぱ出来てんのかよ」

低俗だね。
ランスの意見が真幸の脳裏に響いた。
それには真幸も激しく同意する。

「ほんと、学年一桁の秀才が聞いて呆れるわ。言っておくけど、アンタの悪行は私の耳に届いてるからね。それをやめない限り、今回みたいなコトが起こらないって保証は無いわよ」

ぎくりとした表情で凍りつく「諦めの悪い男・ナンバー2」
ポケットから引っ張り出した福沢諭吉入りの例の封筒を、その顔に向かって投げ捨てた。

「アンタの相談を受けるのは、これが最初で最後。今後、アンタの話には一切耳を貸すつもりは無い。それがわかったら、さっさと私の前から消えて。目障りだわ」




鞄を抱えてそそくさと人ごみに消えていく高柳の背を尻目に、ランスは隣に立つ真幸に問いかけた。

「で、今日の仕事は?」

「予備校の地縛霊の処理。あの馬鹿男に憑いてる霊は後回し」

「いいの?」

「何が起ころうが、私の知ったことじゃないわ。少なくとも、日付が変わるまではね」

高柳には「明日からは」何も無いようにすると言ってある。
それまでは何が起こっても約束を違えたことにはならない。

「純粋な女の子を弄んで傷つけて、もう少し痛い目見るべきだわ。一番出てたのは奈美って女の子なんだけど、可哀相で仕方なかったわよ」

「ふぅん。確かに痛い目見せてやるべきだね」

女性を大切に、という一点において、真幸とランスは完全に意見が一致している。
女の子を泣かせる奴は万死に値する。

「それよりも、さっきの台詞は何? 手に負えないってどういうことよ」

「あぁ、それはセンセイの気持ちを代弁してみた」

勿体無い、にツッコミが無いあたりに真幸の性格が現れているとも言える。
わけがわからないと言った様相で真幸は溜息を吐いた。
そんな真幸の頬に、ポツリと水滴が落ちてくる。

「sun shower? もう夜中だけど」

ランスがそう言うと。

「狐の嫁入り。でも、きっと、あの子の涙よ」

最早泣けない彼女の涙は真幸の頬を伝って落ちた。