13.螺旋


ぐるぐると。
廻り廻って、結局同じポジションに戻ってくるだけでは意味が無い。
そんなことはわかりきっていて、成長の無い自分に溜息が漏れた。




真幸が自宅マンションに着く頃には、辺りはすっかり暗くなっていた。
病院で晃に言ったように、途中で捕まえたタクシーでここまで帰ってきたわけで、マンションのエントランス前でそのタクシーから降りる。
ふと頭上を見上げる。
最上階の一番端、悠斗の部屋には煌々と明かりが灯っていて、主の在宅を示していた。
普段と変わらず真幸の足は自然とエレベーターに向かい、しかし、気付くと悠斗の部屋の前に立っている。

(……馬鹿みたい)

無意識のうちの行動。
自分が今、何を一番欲しているのか如実に語っているようで。
真幸の頭の中は、己に対する言い表し様の無い違和感で一杯になった。
自分が自分でなくなるような感覚。
そんなことは現実にはありえないのだが。

いつも外しっぱなしのブレザーのボタンを上から1つずつ留める。
それから呼び鈴を押すと、相手はこちらの確認もせずにドアを開けてきた。
その相手、悠斗の顔を、何故か真幸は久々に見るような錯覚を覚えた。

「……ただいま」

「お帰り。夕飯出来てるけど、真幸も食べてく?」

曖昧な返事を繰り返す間に、真幸は室内へ連れ込まれていた。
しばらくは釈然としない面持ちだったが、食欲のそそられるカレーの匂いを嗅いで、この状況を受け入れることにした。
どうせ今から自宅に帰って夕食の準備をするのも面倒臭い。
悠斗と一緒に済ませてしまった方が経済的でもある。

「悠斗、ハンガー借りてもいい?」

「確かクローゼットの右側に空いてるのが……」

「知ってる」

寝るのと着替えにしか使っていないからか、悠斗の寝室は意外と片付いている。
というのも、実は真幸が「洗濯物を溜めるな」「服は分類して片付けろ」と口煩く言ったからなのだが。
作り付けのウォーク・イン・クローゼットの戸を引き、そこから何もかかっていないハンガーを1つ抜き取る。
留めたばかりのボタンを再び外し、ハンガーにブレザーの上着をかけ、クローゼットの取っ手に引っ掛けておいた。

洗面所で手を洗い、それから悠斗の居る台所へと向かう。
ネクタイを外し、袖を捲くった悠斗は、白いシャツに致命的なカレーのシミを作らない為に、紺色のエプロンをしていた。

「ねぇ、向こうの部屋の植木鉢、ちゃんと水遣ってる? なんか元気無いみたいだったけど」

「失礼な。ちゃんと世話してるって。あ、その皿取って」

言われた皿を二枚、悠斗に渡す。
それから真幸は引出しからランチョンマットを取り出し、テーブルの上に引いた。
悠斗のマットが深緑で、来客用の真幸の分は淡い紅色。
それも微妙に気に入らない。
どうせなら全て一色で揃えてくれれば良いものを。

「栄養剤あげた方が良いかもね。観葉植物なんだから、ちゃんと観賞用らしくしておくべきよ」

スプーンとサラダ用のフォークを揃えて並べる。
それから食器棚からグラスを二つ取り出し、冷蔵庫から出した牛乳を注ぐ。

「そのうち買ってくるか……。真幸、そっちに座ってていいよ」

「運ぶの手伝うって。こっちのリビングのは大丈夫そうね。日当たりじゃない?」

二人揃い、向かい合って椅子に座る。
一人で食べる食事ほど味気ないものは無いと、真幸は知っている。
昔から家庭の事情という理由で一人きりの食事をすることが多かった。
実の親よりも悠斗と一緒の食事の方が記憶に残っている。

「いただきます」

「いただきます」

口に運んだカレーはスパイスが効いていて、ピリリと辛かった。

「そういや、体調はどんな感じだ?」

「もう普通」

一週間前、鬼国から帰ってきた日、晃が倒れた日。
全てが終わってから、真幸は熱を出して寝込んだ。
呪力増幅印を用いて無理に術を使った反動もさることながら、諸々の出来事に体力と精神力がついて行けなくなったことが原因だ。
特に悠斗に何か言ったわけではないが、助けを求めた唯から話が伝わったらしい。
気付くと冷蔵庫に差し入れのプリンが入っていた。

「薬飲んで熱は下がったし」

悠斗が忙しい事は、式神・刹が真幸の様子を見にやって来たことからも伺い知れた。
そんな時に、余計な心配をかける必要も無い。

「プリンは、ありがと。美味しかった」

「……どういたしまして」

微妙に含みを持った物言いに、真幸は顔を上げる。
悠斗と目が合ったが、悠斗はすり抜けるように視線を外した。
それから会話は途切れてしまい、なんとなく気まずさが漂うまま夕食は終わった。




+ + + + +



夕食の片付けを終え、ソファの真ん中に陣取った真幸に、悠斗はコーヒーの入ったカップを手渡した。
真幸のコーヒーは砂糖無しのブラック、そして自分のカップにはミルクを注ぎ足してある。
灰皿をテーブルの上に置き、悠斗は真幸の隣に腰を下ろした。

「で、今日はどうした?」

「……別に」

真幸が「別に」と言う時は、何かあった時だということを悠斗は了解している。
何も無ければ真幸は「何も無かった」と口にするのだ。
いつも自分のことを振り回すのだし、変な所で遠慮するのはやめて欲しい。
それで悠斗が真幸に愛想を尽かすことなど無いのだから。

「何も無いなら、真幸は俺の前でそんな顔しないだろ」

言ったら、真幸は顔を背けた。

「皆川の事か」

いつもはここまで言及しない。
けれど、今日は。

「……わかってるなら聞かないでよ」

「わからないから聞いてるんだよ。聞かなきゃ答えないじゃないか」

聞き逃してしまいそうな小さい声で呟いた真幸の傍らで、悠斗は煙草の先に火を点けた。
そして、そのまま無言で真幸を促す。
真幸は一度だけ、コーヒーに口を付けた。

「……晃には、どこから集まったかわからないくらい大量に……しかもタチの悪い霊団が憑いてて……でもその中にはやっぱり、私に向かって来るべきヤツラもたくさん居て……」

彼女にしては歯切れ悪く語るのを、悠斗は黙って聞いていた。
真幸はマグカップを両手で包み込むようにして持っている。
その中の小さな黒い水面を見つめるだけで、けして悠斗の方に顔を向けようとしなかった。

「晃は、普通にしてても霊を集めやすい。影響を受けやすい。それなのに……それをわかっていたのに、私は何もしてこなかった……。確かに今回は間に合ったわ。でも、いつまたこんなコトが起きるかわからないじゃない」

耳にかけていた髪が落ちて、真幸の表情を悠斗の目から隠した。

「ユイやランスはいいのよ、だって自分の状況を自分で把握できるんだから。でも……でも晃は違う。アイツは自分の置かれた状況を理解できない。霊は見えても、ソレがどれだけの力を持っているのか、どれだけ自分が危険なのか全然……全然わかってない……っ!!」

滅多に見せない激情が、真幸の口から吐き出される。
静かな部屋に感情的な声だけが響き、真幸は自分自身に驚いたように身を竦めた。
小さく上下する肩に触れようと伸ばしかけた腕を、悠斗は静かに戻した。

真幸は常に冷静を心掛けている。
冷静でいなければ能力者の仕事は務まらないからだ。
物事を冷静に俯瞰し、感情に流されず、自分を見失わないことは能力者の絶対条件である。
年若い能力者が協会内に少ないのもそのためだ。
いくら能力的に優れていても、人格的に未成熟な者を協会は受け入れない。
厳しい審査をクリアしなければ協会に所属することはできないのだ。

内気過ぎる橘織江は会員の中でも例外中の例外で、C級認定は受けているものの、個人で動く事を許されない準会員だ。
織江が何か仕事をする場合は、兄の恭也かB級認定以上の能力者の付き添いを義務付けられている。

「……最初っから、晃を巻き込むべきじゃなかったのに。もし私のせいで晃に何かあったら……私、晃の家族に顔向けできない……」

異例な程早く協会に認定された真幸も、能力者がどうあるべきか良くわかっているはずで。
真幸は己の本質を押さえ込み、コントロールする術を持っている。
けれど、押さえ込まれた、外に出るべき感情は、けして消えるわけではない。

悠斗は思い出した。
真幸は大人であり、それ以前に子供でもあるのだ。

「だから……」

「だから、晃の霊力全てを封じた……。浄化結界を張り、その場の悪鬼怨霊を消滅させ、晃の霊体を身体に定着させ、霊感覚の中枢を麻痺させ、流れ出る霊力を内側に収縮させた。だろ?」

短くなった煙草を灰皿に押し付け、悠斗はその手で己の頭を掻いた。
真幸はと言えば、相変わらず悠斗から顔を背けたままで、悠斗の言葉に何の反応も見せない。
ただ、手にしたままのカップの縁をカツカツと爪で弾いていた。

「今後、晃は霊を感じることも無いだろうし、霊からも干渉されることはないだろう。霊力が全く無い人間を、霊は認識できないからな」

間違った対処の仕方だとは思わない。
けれど、正解でもない。
他にもっと別の選択肢はあったはずだ。
何となく苦いものが悠斗の胸の内に広がっていく。

「なんで……俺に相談しなかった?」

カップを弾く音が消える。
代わりに、その指が細かく震えているのが見えた。

肩に触れる。
真幸の震えが止まった。

「真幸」

力一杯、悠斗の腕が振り払われる。
コーヒーが半分ほど入ったままだったカップが、立ち上がった真幸の手から零れ落ちる。
真幸の目が悠斗を捉える。
悠斗の目が真幸を捉える。

けたたましい音を立て、二人の間でカップが割れた。

「…………居なかったじゃない」

真幸の唇が小刻みに震えている。
足元に茶色の水溜りが広がっていく。
悠斗はソレらを視界の隅に見ていた。




「……アンタ……私が頼りたい時に、何処にも居なかったじゃない!!」




それから自分が何を口走ったのか、真幸は覚えていない。
一通りの罵詈雑言と己を卑下する言葉。
そして、悠斗の淋し気な顔。
そればかりが瞼の裏に焼き付いて、ずっと消えない。

もはや立っている気力も無く、真幸は再び身体をソファに沈めた。
悠斗の前でなど泣きたくないのに、瞳からは止め処無く涙が溢れ続ける。

「……自分が……惨めに思えてしょうがないっ……」

他の誰かに相談することも出来ず、自分が一番傷付かずに済む方法を選んだ。
それしか選べなかった自分が、情けなくてどうしようもない。
世の中で一番惨めな生き物に思えて仕方が無い。

意地を張っていたわけではない。
けれど、自分の狭量さに涙が出る。

「……あんまり自分を責めるもんじゃない」

「責めてなんかないから、もぅ、ほっといてよ……」

「ほっとけるわけないだろ」

今更だけど、と言うと、悠斗は真幸の腕を掴んだ。
そして今度は真幸が振り払う前に、真幸の身体は悠斗の元に引き寄せられていた。
視界は白いシャツで一杯になり、煙草といつも悠斗が使っている薄い香水の香りに包まれる。

「俺は、あんまり真幸に後悔して欲しくない」

「後悔なんか、してない」

涙声で説得力が無いのは、言った真幸本人にもわかっていたが。
悠斗はそんな真幸の背中をゆっくりと撫でた。

「でも、ああするしかなかった自分が悔しい」

まだしばらく、涙は止まりそうに無かった。
言い表し様の無い違和感も、受け入れてしまえばなんてことない。
真幸はこの時だけ、自分のプライドを捨てることにした。

悠斗の胸に顔を埋めたまま、その腕を背中に回す。
より近く感じた悠斗の温もりは、鬼国で感じた、記憶の中の温もりと同じだった。

「後悔する前に……もし悩んでる時間があるなら、俺に話しなよ。どんな些細な事でも、真幸の話は全部聞くから……」

静かに語る言葉と、真幸の身体を抱きしめ返す力強い腕。
それに癒されている自分が、確かに此処に居る。

あまり認めたくないが、悠斗は真幸の事を一番わかっている。
単なる付き合いの長さと言ってしまえばそれまでだが。
けれど、悠斗の事を一番理解しているのは、必ずしも真幸だとは言えない。

(アンタは、聞いた事しか答えてくれない。聞いた事にも答えてくれないくせに……)

舜は真幸に「己の内に疑問を溜め込むのは良くない」と言った。
溜め込まれた疑問は、いつか疑心を生じる。
真幸をそのようにしたのは、悠斗だ。

「そんなに苦しむなよ。俺は、いつでも真幸の味方だから」

そんなこと、ずっとずっと前から真幸は知っていた。




+ + + + +



ぐるぐると。
廻り廻って、結局同じポジションに戻ってくるだけでは意味が無い。
そんなことはわかりきっていて、成長の無い自分に溜息が漏れた。

だから、出来ることならば、真幸が自分と同じ轍を踏むことだけは避けたかった。
その思いは今も変わっていない。

けれど最近になって考えたことがある。
ぐるぐると同じような所を歩いていたとしても、それが螺旋状ならば、少しずつ移動しているのではないか、と。
もしかしたら自分達は、僅かずつながら前進しているかもしれない。

何てことはない雑誌の小さなコラムが、そのことを悠斗に気付かせた。