11.37.5
ぴ、たん。
水滴が落ちる音で目が覚めた。
最初に視界に入ったのは見慣れた天井で、カーテンの閉まった室内は薄暗かった。
ゆっくりと目だけを動かして、壁に掛けた時計を読む。
時刻は、夕食時の七時だった。
神無月も近いこの時期、カーテンが開いていても部屋は暗かっただろう。
ふと気になって、右手の方向に目をやる。
まだ悠斗がそこに居るような気がしたが、残っていたのは感覚で覚えているだけの温もりだった。
その掌を結んで、そして開く。
「向こう」と違う「こちら」では、まだ感覚がぼやけたままだった。
鬼国と現世では時間の流れが若干異なるらしい。
向こうで過ごしたのは一日ちょっとだったが、こちらでは二日間が過ぎていると、鬼国を旅立つ直前に舜が言っていた。
(ってゆーか、ホント何なのよ)
呼び出す時も突然なら、帰す時も突然。
一方的な仕打ちに真幸は何度目かの怒りを覚えるが、それをぶちまけようにも相手が居ない。
仮に居たとしても、思うように身体を動かせないこの状態。
出来るのは馬詈雑言をぶつける程度だろうが。
ゆっくりと身体を持ち上げる。
頭が、こめかみの辺りが酷く痛む。
カツン……
カツン……
にわかに窓の外が騒がしくなる。
小石か何かが窓にぶつかっている様な、そんな硬い音。
一瞬、子供の悪戯かと思ったが、ここはマンションの七階だ。
石を投げて、ぶつけられる高さではない。
そして、もう一種類の音。
バサバサという鳥の羽音で、段々とその数と大きさを増していく。
ベッドから這い出た真幸は、ゆっくりとカーテンを開いた。
「うわ……っ」
窓の外、ベランダは数え切れない程の烏達で真っ黒に埋め尽くされていた。
竿に留まったり、クーラーの室外機の上を陣取ったり。
時が経つにしたがって数を増やしていく烏達だが、窓硝子をつついているのは一羽しかいないことに真幸は気付いた。
意を決し、窓を開く。
なだれ込んでくるかと思ったが、室内に入って来たのは硝子を突いていた一羽だけだった。
「……ランスの使いか」
吸血鬼が使役する動物としてはコウモリが有名だが、烏や犬を使役するのもよくあることだ。
まして都会ならば、コウモリよりも圧倒的に数で勝る烏の方が使い勝手が良いだろう。
真幸の肩に留まった烏は、目をキョロキョロとさせながらランスからの言葉を伝え始めた。
「アキラ、危ナイ、中央病院、霊障、ユイ、ランス、行ク」
伝えられるたどたどしい人語の内容に、真幸の眉根が寄った。
病院までの詳しい道程はおろか、最寄り駅すら知らなかった真幸は、仕方なく大通りでタクシーを拾った。
本当は悠斗に車を出させようと思ったのだが、携帯も自宅の電話も繋がらなかったので諦める他無かった。
(土曜日なんだから、仕事上がるの早いでしょうに)
デートなら話は別、と考え、その可能性を全く考慮していなかった自分に気付く。
今まで、そんなことなど考えたことは無かった。
(……そもそも悠斗は私のことが好きなのかしら)
他人が聞いたら吹き出すようなことを真面目に考えるのは阿保らしい。
と言うよりも、そんなことを一人で考えたくない。
ただでさえ色々なことがありすぎて頭がパンクしそうなのに。
自分はけして器用な方ではないと思っている。
(妙な責任感とか、感じてるだけじゃなくて?)
舜から渡された、幼い頃の記憶達。
思い出したそれらは、忘れていたのが不思議なくらいで。
その全て、どれもこれも悠斗に関係するものばかりで。
嫌になる。
(私が覚えてる淋し気なカオ……あれは、私がアンタのコトを全部忘れたからだったのね)
溜息を吐いた。
今は、晃のことを考えよう。
悠斗のことは、それからでも遅くはない。
一時忘れていた頭痛が、再びじわじわと戻ってくる。
額に当てた指からは、自分の熱が伝わってきた。
病院に着いた時には、既にあたりは真っ暗だった。
ひっそりとしたロビーには、腕組みをしたランスが立っていた。
真幸の足音に気付いて、ランスは弾かれるように顔を上げる。
そこに一瞬だけ浮かんだ、すがるような色と救いを見出したような色に、真幸は状況の悪さを悟った。
「……何処」
「6階」
特に何を聞くでもなく、真幸はランスとエレベーターに乗り込んだ。
沈黙の時間はそう長くはない。
降りたフロアの廊下の先には、見慣れた唯の姿と、晃の家族と思しき二人の女性があった。
真幸の方を見た唯の顔には、先ほど通用口でランスが見せたものと同じような表情があった。
泣きそうな顔で走ってくる唯を、真幸は厳しい表情で迎える。
左腕で唯の肩を抱き、そして二度三度軽く叩いた。
「……ユイ、晃は大丈夫。だからそんな顔しちゃ駄目。いい? 晃は。大丈夫。OK?」
頷く唯をランスに任せて、真幸は晃の家族の方へと足を向けた。
母親と、妹だろうか。
年嵩の女性の方が、真幸に向かって頭を下げた。
それを見て、慌てて少女の方も頭を下げる。
彼女たちに向かって真幸も丁寧に礼を返す。
「初めまして。神城と申します」
「息子から話は伺っています」
着替える間も無く慌ただしく家を出てきたので、真幸の格好は一昨日と同じ制服である。
しかもスカートには変な所にシワが出来てしまっていて、残念ながらパリッとした格好良い先輩には見えそうにない。
「委員会で、いつもお世話になっていると」
「いえ、大したことはしていません……」
晃との関係をどのように説明しようかと、実は真幸は悩んでいたのだが、それは杞憂に終わったようだ。
委員会と言うのは「心霊対策委員会」のことで、もちろん正式な委員会ではないが、今それらを説明する必要も無い。
「それで、晃君の容態は」
真幸の問いに、晃の母は首を横に振った。
顔色が悪く見えるのは、白い蛍光灯の下だからという理由だけではないだろう。
「原因不明の高熱が続いていて、今晩中に意識が戻らないと……」
崩れ落ちそうな晃の母の身体を真幸が支える。
「お母様は座っていらしてください。今、何か飲み物でも買ってきますから」
その場にランスを残し、真幸は唯を連れて再びエレベーターに乗った。
唯は相変わらず泣きそうな顔をしていたが、無理も無い。
それを責めるつもりも真幸には無かった。
晃を連れて行こうとするモノ達を、感じてしまったのだから。
「ユイ、私が居ない間に起こったこと、全部話して。詳しく、でも簡潔に」
唯は、真幸のセーターの裾を掴んでいた。
伸びそうだと一瞬思ったが、そのままにさせておいた。
「……学校に居た人形の霊が、晃に憑いてたんです」
自販機でコーヒーやら紅茶やらを買い込んでいる間、唯の言葉に真幸は耳を傾けていた。
晃が人形を見つけたこと。
その後、晃が学校を欠席したこと。
それを不審に思って悠斗のところに相談に行ったこと。
そして、晃の家で起こった事件。
「ユイ、何か間違ったコトしちゃったんでしょうか。ユイが余計なコトしなければ」
「余計なコトなんかしてないわ。むしろ一番正しい処理をしたんだけど……これは相手が悪い」
言葉の最後は、口中での呟きだった。
真幸は下唇を噛む。
唯が行った九字法に始まる一連の処理に、何も手落ちは無い。
災いをもたらすものを退散させるその方法は、最も適した手段だったはずだ。
それが直接的に悪い状況をもたらすはずは無い。
立ち止まった真幸に、唯は怪訝そうに顔を上げた。
「お姉様?」
「ちょっとお手洗い。先行ってて」
唯の手から自分の分のコーヒーを取る。
替わりに持っていた紅茶とオレンジジュースを渡して、真幸は途中の角で折れた。
この病院は最近建て直したらしく、廊下も新しい。
もちろんトイレも清潔かつ綺麗で、このような場所に溜まりがちな陰気も少なかった。
真幸は一番奥の個室に入り、扉にもたれ掛かりしゃがみ込む。
実のところ、そろそろ立っているのが辛いのだ。
唯と話している間も頭痛は酷くなる一方で、一向に回復の兆しを見せない。
(マジ、しんど)
普段はあまり飲まないミルクと砂糖の入った甘いコーヒーを喉の奥に流し込む。
良く考えてみると、この生身の躯は一昨日の夕方から丸二日間以上何も摂取していない。
辛いはずだ。
空腹感は無いが、だからと言ってこのまま放っておくわけにもいかないのだが。
(帰ったら御飯食べて、お風呂入って、それで風邪薬飲んで寝よ……)
溜息を吐く。
悠斗が居ない以上、今何か出来るのは、彼等が頼れるのは自分しか居ないらしい。
自惚れでは無く、それが事実。
缶を脇に置いて、真幸は目を閉じた。
原因は、一体何処にある?
この事態の最初の原因である人形は、唯によって正しく処理されている。
となれば、まだ他に要因が残されているはずだ。
息を吸って、ゆっくりと吐き出す。
呼吸の度に額の一点に意識を集中させ、段々と自分の感覚が研ぎ澄まされていくのを肌で感じた。
細い緊張の糸が途切れそうになる、その限界。
真幸は「眼」を開いた。
そこに映るのは、現実世界ではない。
空間的、あるいは時間的に隔絶した世界。
遠隔霊視と言ったり、霊査と言ったり、呼び方は人それぞれだ。
感覚的なモノなので、何も決まったルールは無い。
先を、もっと先を。
覗こうとして、絡み付く空気を掻き回し、そして。
「弾かれた!?」
思わず、言葉が口をついて出る。
あからさまな拒絶に、真幸は少なからず衝撃を覚えた。
結界など張られていたら話は別だが、普通、妨害はあっても弾き飛ばされるような拒絶は無い。
ましてや真幸の様な、一流と言っても過言では無い能力者を受け入れないとは。
(よっぽど「色」が合わないか、それとも)
人間が手出し出来る代物でないか、どちらかであって。
ならば、と真幸は考える。
「人間」の力で不可能ならば、「人間外」の力で対抗すれば良いのではないか、と。
(でも、本調子じゃないのよねー……)
そうは思っても、やらないわけにはいかない。
右手の薬指でゆっくりと唇をなぞる。
使える力はいつもの半分程度か。
冷静に自らの判断を下す。
相手の実力を見誤る事、己の力量を見誤る事。
そのどちらも深刻な危険をもたらしかねない。
ただでさえ、今回の事で真幸は既に一度ミスを冒している。
これ以上。
そうだ、これ以上「相手」に好き勝手やらせるものか。
(まずは、晃を守るコト)
額の中央に、握り締めた拳を当てる。
「
我が声、深遠の心、往け」
真幸の呪と共に虚空に産み落とされるのは、透き通る様に白い白い蝶達。
美しい燐光を放つ彼等は、真幸の意思を受けて飛び立って行った。
(初めてにしては、まずまずの出来ってトコかしら)
ゾクゾクと背中には悪寒が走るくせに、額からは汗が落ちる。
強く握り締めた手に、爪が食い込む。
壁にもたれ掛かったまま、真幸はゆっくりと口元へ右手を持ち上げた。
「……っ」
中指の腹を歯で噛み切ると、じわりと血が滲み出た。
その血で左手の甲に描く紋様は、鬼国で覚えたばかりの呪力増幅印。
まさか、こんなに早く使うことになるとは思っていなかった。
けれど人の命のかかったコト、万が一つにも失敗出来ない。
溢れ続ける血を、指ごと口に含む。
すると一瞬にして口中に錆びた鉄の味が広がった。
どうしても好きになれないその味に、真幸の眉は心なしか中央に寄る。
(……一生、ランスの気持ちはわかりそうにない)
胸ポケットから絆創膏を取り出して、くるくると傷口に巻き付ける。
片手が思うように使えないので、どうしてもそれは不格好になった。
「よし……」
徐々に下腹部の辺りから熱が上がってくる。
この際、反動は気にしていられない。
晃を助ける、その間だけ。
わずかな時間だけもてば良い。
と、随分自虐的な考えだと苦笑する。
苦笑するが、不本意ではあるが、やはりそれが事実であった。
その苦笑を消さぬまま、真幸の唇は鬼の言葉を紡ぎだす。
人語とは違う、人には解せぬ言葉を真幸は幼い頃から自然と使うことが出来た。
一体いつ覚えたのか、誰に教わったのか。
全く記憶に無く、自分でも謎に思っていたが、今ならわかる。
ずっと忘れていた記憶。
悠斗が幼い真幸に植え付けた、鬼の記憶と力にその全ての答えがあった。
「
たゆとう金色の糸、玲瓏たる水面の真月……」
鬼術を用いる時、力を持つ者ならば、このように長々とした咒を必要としない。
鬼の王であり最大の術者である舜は、全体のおよそ半数の術をその意思だけで、残りの半数も簡略化された咒や印で発動させる。
真幸も今後鍛錬を積めば、ある程度は咒無しに術を使えるようになるだろうが、現状では何分経験不足だ。
「
紫紺の珠、紺碧の珠、白浪の丘、緑陰の海……」
生き物の幽体とは「魂」と「魄」から構成されると鬼国では考えられている。
「魂」は精神を司り、「魄」は肉体を司る。
普段は一体となっている魂魄を分割し、「魄」を身体に残すのが鬼人流の幽体離脱。
通常の幽体と区別するために、「魂」のみの状態を精神体と呼ぶ。
「
蒼天の通い路、落陽の通い路……跳べ」
真幸がやろうとしていることは、いわば精神体離脱。
幽体よりも精神体の方が受ける抵抗は遥かに少ない。
真幸は意識を浮き上がらせ、晃の気配を探した。
格段に広がった世界、視界もより広域にわたっている。
やがて、一つの方向へと意識を向けた。
何かに呼ばれるように、導かれるように、自然とそちらへ体が漂って行く。
邪気の渦巻く、中心へ。
真幸が弾き飛ばされた「壁」の、さらにその内側へ。
+ + + + +
その中にあっても、晃の意識は確かに存在した。
けれどそれは、無意識的に生を望む人として、正常な意識であるとは言い難かった。
(ここ、何処だ……)
心地良いとは言えないが、特別に不快な空間では無い。
ただ、足と手の先がやけに冷たい。
プールの底から空を見上げているような感覚があった。
目に映る光景はゆらめき波打ち、次々と異なった場面に移り変わっていく。
(なんか、どうでもいい……)
ふと、ベッドに寝かされている自分の姿が目に入った。
生命維持装置に繋がれた己の姿。
何の感慨も浮かばず、感情らしいモノは何一つとして現れなかった。
目線を転じると、母親と妹の姿が見える。
(母さん、晴香……)
母親は、泣いていた。
長椅子に浅く腰掛け、手で顔を覆っている。
その指にあるシンプルなマリッジリングが光り輝いていて、最後まで印象に残った。
妹の晴香は、母を支えながら下唇を噛み締めている。
自分は泣くまいと気を張っているのだろう。
母は、すぐ泣く。
だから自分は泣かないと、昔、晴香は晃に言っていた。
そんな記憶も、もう遠い。
段々、目が霞んでくる。
霧の中に居るように、二人の姿は遠くなっていった。