09.冷たい手


理由は定かではないが、学校内の空気がざわめいていた木曜日。

超過労働とも思える残業を終えた悠斗が帰宅の途についたのは、完全に夕日が沈みきって暗くなった午後七時前だった。
学校の裏にある職員・関係者専用の駐車場に停めた車に乗り込み、エンジンキーを差し込んだ時のこと。
不意に、悠斗の目前に銀色の蝶が姿を現した。
思わず身を退いてそれをかわす。
ふらふらと彷徨った後、蝶は悠斗の肩に止まり、さして懐かしくない幼馴染の声を再生し始めた。

『……先刻、余のもとに例の娘を招いた』

「……はぁ?」

挨拶も無しに始まった舜の言葉に、思わず悠斗は声を上げる。
例の娘というのは真幸のことだ。
招いたというのは、舜の居る鬼国に真幸を連れて行ったということか?
声は再生されるだけで、悠斗に対する返答は無い。

『まこと興味深い。そなたが執着するのもわかる気がするぞ』

「別に執着じゃないって……」

シートベルトをしながら、やはり相槌を入れてしまう。
それにしても、舜はやる事成す事の全てが突然だ。
しばらくは様子見だと言っていたくせに。

『それでの、此度は急なことであったので、娘の魂魄のみを呼び寄せた。故に、娘の身体は人界に残したままじゃ。しかるべき措置を取らねば危ういと思っての』

「……何だって!?」

幽体が抜け出した状態、そのままで放っておけば簡単に肉体は死んでしまう。

『己の身体をどうしてくれると娘が五月蝿くてな。悠、そなたが様子を見よ』

「そりゃ、言われなくても」

サイドブレーキを上げて車を急発進。

『娘は一両日中に返すが、いやはや、稀に見る逸材。楽しみじゃ』

何が楽しみなのか。
あまり余計なことはするなよ、と思いながら、悠斗は少々強引に車の流れに入っていった。
事故さえ起こさなければ、それで良い。

『全て余に任せよ。悪いようにはせん。そなたは娘の帰りをそちらで待つが良い……』

言葉の余韻を残して、蝶は虚空に散った。
それを視界の隅で確認し、悠斗は大きく息を吐く。
車中には自分一人しか居ない。
溜息を隠す必要すら無かった。

いつもより多少乱暴な運転で自宅マンションに辿り着く。
駐車場に車を置いて、悠斗は郵便受けを確認することも忘れてエレベーターに乗り込んだ。
押したのは真幸の部屋のある七階のボタンで、僅かな時間も惜しむように狭い箱の中で家の鍵を探す。
エレベーターが停まると同時に飛び出した。

取り出した合鍵で部屋のドアを開けると、果たして、真幸の身体は玄関に倒れていた。
真幸がいつも使っている鞄は傍らの床に落ちていて。
靴も履いたままの状況からして、本当に真幸は突然連れて行かれたようだ。

「これは、クレームつけてもいいよなぁ」

呆れながら呟き、靴を脱がせて真幸の身体を抱え上げる。
可哀相に、倒れた時に下になった左頬にフローリングの線がくっきりと残っている。
まぁ、永久に残るものでもないが、真幸が見たなら相当に嘆くことだろう。

ぴくりとも動かない真幸を寝室へ運び、ベッドにそっと横たえた。
部屋の中は物が少なく、壁の大きなボードに無造作に留めてあるポストカードや、空の写真が印象に残る。
悠斗はベッドの脇に腰掛け、寝かせた真幸の制服のネクタイを緩めてやった。
まるで死んでいるような状態だが、それでも微かに呼吸はしている。

「真幸……あんまり無茶するんじゃないよ」

そう口にしても、この声は届かないけれど。

悠斗は一人苦笑して、真幸の髪に手を伸ばした。
指の間を抜けていく細い髪の感触が心地良い。
もしそんなことを言ったら、真幸には変態扱いされること請合いだが。

「手、冷たいな……」

触れた真幸の手は氷のように冷たく。
それを握り締める悠斗の手は温かく。

手から生命の流れが真幸と繋がるように。
悠斗の命の波動が真幸を包み込むように。

霊魂が抜け出た身体は、そのうち生命エネルギーを無くして死んでしまう。

繋がったままの右手と右手。
そして、夜は更けていった。



+ + + + +



「ランス先輩、おはようございまぁす」

「あぁ、ユイちゃん。おはよう」

駆け寄ってくる唯に、ランスはひらひらと手を振って応じた。

悪性の低血圧で朝に弱い、ということになっているランスが登校してきたのは、丁度二時間目と三時間目の間の休み時間だった。
低血圧というのは嘘であるが、朝に弱いということは事実である。
なんといっても、ランスは半分吸血鬼だ。
朝に強いはずがない。

「相変わらずの重役出勤ですねぇ」

そう言って笑う唯に、こちらからも笑いを返す。
前の時間は美術だったのだろうか。
スケッチブックと絵具セットの入った大きなバッグを唯は肩から提げている。
美術室と言えば。

「ねぇ、ユイちゃん。美術室に変わったトコとか無かった?」

「そうなんです!! 聞いてくださいよぉ」

パチンと手を叩く。
その動作に合わせて、くるんと巻いたツインテールが飛び跳ねた。

「美術室に何かヘンな線が出来てたんです!!」

さすがに話題が話題だけに唯の声のトーンも下がる。
一般生徒に余計な不安を与えてはいけないという配慮だろうか。
といっても、心霊委員会のメンバーが二人でコソコソ話している段階で、既に会話の内容は周囲にバレバレだが。

「線って……何かヤバいものが通った跡ってこと?」

いわゆる霊道とは違うが、霊の通った後にできるラインのようなものだ。

「多分。授業中だったんであんまり詳しく霊視できなかったんですけどぉ。真幸お姉様も今日はお休みだし、どうしましょう」

「どうしようって言われても、僕向きの話じゃないからね。困ったなぁ」

それに、気になることは他にもある。

「ところで、アキラは今日来てる?」

「晃なら今日は風邪でお休みですよ。お馬鹿さんは風邪引かないって言うんですけどねぇ」

「ホントに風邪?」

まさかとは思うが、何らかの障気に当てられたのではないだろうか。
晃は体質的にそういった類のものに弱い。
普通の人間なら何でもない状況でも、晃は体調に異変をきたすことがこれまでにもあった。

「会ってないからわからないです、そんなの」

それもそうだ。
遠隔霊査をすれば何かわかるかもしれないが、そんなことをするよりも直接電話するか、本人を訪ねた方が早い。

「よくわからないしぃ、真幸お姉さまが出てきてからでもいいかなって思ってるんですけど……」

「まぁ、そうだね……って、ユイちゃん。休み時間終わるよ」

時計を見れば、チャイムが鳴る一分前。
ランスはこれから職員室に顔を出し、それから教室に向かえば良いのでさして問題無いのだが、唯はこれからチャイムが鳴る前に教室まで戻らねばならない。
無駄に立ち話をしすぎたようだ。

「うそぉ!! じゃあ先輩、また後で!!」

慌ただしく走り去る唯の姿を見て、どこかで転ぶんじゃないかとランスは真剣に思った。
たとえ誰かとぶつかっても、そこからロマンスは生まれない。
多分。




「って話を昨日ランス先輩と話してたんですけどぉ、お姉さまは今日もお休みだしぃ、先輩も居なくなっちゃうし……先生ぇ、どうしましょう?」

翌土曜日の放課後。
唯は珍しく悠斗のもとを訪れていた。
真幸と一緒に悠斗と会うことは今までに何度もあったが、差し向かいで話をするのは数えるほどしかない。

職員室、進路指導室とその姿を探し、ようやく見つけたのは午後の日差しがのどかな国語課研究室だった。
国語課教師なのだから当たり前のことなのだが。
放課後ともなると、教師の姿を探すのは面倒なことだったりする。
それなのに真幸は悠斗を探すのが上手で、大体何処に居ても一発で見つけ出す。

「クラスの子に聞いたらぁ、一昨日の掃除の時に持ち主不明の人形が出てきたとかで、しかもそれを見つけたのが晃らしいんですね。その晃も昨日からお休みだしぃ。お馬鹿さんは風邪引かないじゃないですか」

かく言う唯も、滅多に風邪は引かないのだが。
この際、自分のことは棚に上げておく。

「ランス先輩はその原因が美術室の何かにあるんじゃないかって思ってるみたいです!!」

唯が熱く語る傍らで、悠斗はずっと赤ペンを持って小テストの採点を続けていた。
もちろん唯の話は最初から全て聞いている。
採点の方が流れ作業になってしまっているのだ。
何枚も同じ答案を見ていれば、いい加減飽きてもくる。
悠斗の場合、採点作業というものは、えてして灰皿に吸殻の山を作るのと並行作業だ。

「久遠。コーヒー切れてるんで、悪いんだけど自販機で何か買ってきてくれないか?」

「……自分で行けばいいじゃないですか」

一応反論の姿勢を取りつつも、右手は悠斗が取り出した小銭を受け取っている。

「職員会議の前に、この採点終わらせたいんだよ」

そう言って、採点済みの山にまた一枚答案を加える。

「なんだったら久遠の分も買っていいけど」

「……何買ってきます?」

「オレンジ」

一瞬、聞き間違えたかと思ったが、悠斗が言い間違えるとも思えない。

「果汁三十パーセントのヤツで良いですか?」

「ん、頼む」

やはり間違いではなかったようだ。
唯は渡された五百円玉を握り締め、研究室を出てジュースの自販機がある階段ホールに向かう。

この普通教室棟の各階、階段前のスペースには自販機とベンチが置かれている。
放課後は生徒達の談話スペースの役割も果たしていて、何人かの女生徒の姿がそこにはあった。
自販機で悠斗のオレンジジュース、ついでに自分のミルクティーを買い込んで研究室に戻る。

「先生ぇ、買ってきましたよ〜」

ドアを開けると、悠斗は出て行く前と同じように赤ペンを握っていた。
その傍らにオレンジジュースと釣銭を置くと、唯は適当に見つけた椅子に座って缶のプルトップを引いた。

「悪いな」

悠斗は器用に片手で缶を開ける。
余程喉が渇いていたのか、一口で半分は飲んだようだった。

「とりあえず、皆川の家に行ってみないか?」

缶から口を離し、悠斗は唯にそう告げる。

「えぇ〜っ、ユイがですかぁ?」

「俺も忙しいし、真幸の方も何かと立て込んでるんだ。今動けるのは久遠しか居ない。『本体』はもう美術室から動いたみたいで、ここからじゃよくわからないし……」

話しながらでも、悠斗の赤ペンを動かすスピードは一切変わらない。
最後の一枚の採点を終えて、プリントの束を揃えて机の上に置いた。

それにしても、一体いつの間に調べたのか。
唯がジュースを買いに行っている僅かな間に、おそらく式神を飛ばすか遠隔霊査を行ったのだろう。
今更だが、悠斗の能力に感心してしまった。

「そんなにヤバい感じはしないけど、皆川の様子は見ておいた方が良さそうだと思う」

残りのオレンジジュースを飲み干し、そして缶を潰してゴミ箱に投げ捨てる。
空を飛んだ缶は、三つあるゴミ箱の内、正確に缶専用の箱に収まった。

「やっぱりユイが行かなきゃダメなんですかぁ?」

ネクタイを締め直し机周りを片付ける悠斗は、唯が両手で持ったミルクティーを指差す。

「それ、金出したの俺だよ」

「先生ってずるーい……」

唇を突き出して文句を言う唯の頭を、悠斗はぽんぽんと軽く叩く。

「大人ってのは大抵ズルイんだって。俺は職員会議に行くけど、久遠は……」

「わかりましたよ。晃の様子見に行ってきます!!」

「今夜辺りには真幸に連絡つくと思う。何かあったら話してみるといい」

「はぁ〜い」

スーツの上着を持って研究室を出て行く悠斗を見送り、唯は缶の残りを一気に飲み干した。



+ + + + +



夕方、部活を途中で切り上げた唯は、住所が記されたメモを片手に駅に居た。
普段は徒歩通学なので、電車を使うことはあまり無い。
駅前の地図で場所を確認し、唯は晃の家を目指して歩き始めた。
人通りの多い商店街を抜け、住宅街に入っていく。
細い路地が数多くあったが、唯は手元のメモを見ることも無く、ただ真っ直ぐに晃の家へ向かう道を歩く。

(この線って、美術室のと同じ……?)

唯の目は、うっすらと残る黒い線を追っていた。
他の人間には見えないその線。
美術室に居た「何か」は下校する晃の後ろをついて行ったのだろうか。

線を辿って行った先には、「皆川」の表札がかけられた門があった。
黒い線は玄関まで伸びて、丁度ドアの手前で消えていた。

「あの、ウチに何か御用ですか?」

門の前でぼうっとしていると、突然後ろから声をかけられる。
慌てて振り返ると、そこには買い物帰りらしき女性の姿があった。

「えっと、晃くんと同じクラスの久遠と言います。配られたプリントと、あとお見舞いに……」

「そうですか。どうぞ、お上がりください。ただの風邪だと思うんですけどねぇ」

笑う女性は、晃の母親だった。
彼女に招かれ入った家の中で、唯は思わず息を飲んだ。
温かい空気と冷たい空気がごちゃ混ぜになっている。

玄関から見える電話台の向こう側に、小さな人形が見えた。
これがおそらく晃が見つけたというリカちゃん人形だろう。
正確に言えば、その人形の中に入っていた霊。
やはり学校から晃に憑いていたのだ。
けれど、これは残像。
本体は晃のもとだろうか。

「晃の部屋は二階の一番奥です。寝てると思うけど、起こしてやって構いませんよ。すぐにお茶を持って行きますから」

「いえ、お構いなく」

靴を脱ぎ、言われた部屋に向かう。
階段を上り、廊下の奥にドアが見えた。
玄関の前で消えていた線が、ここにもポツポツと見えた。

部屋の戸をノックして呼びかけるが、晃からの返事は無い。
そっと中に入ってみると、どうやら母親の言ったように夢の世界らしい。
その方がこちらとしては好都合だ。

唯は鞄から数珠を出そうとして、躊躇った。
ただの病人相手に数珠を持っているところを家人に見られたら、見た方はあまり良い気持ちはしないだろう。

(けど、この状況……)

本来なら日当たりが良いであろう部屋は、雑多なモノ達のせいで電気をつけても唯には薄暗く感じられた。
晃が集めてしまった浮遊霊だろうか。
形のあるもの無いもの、吹き溜まりの様になってしまっている。
何故、こんなことになってしまっているのか。

とにかくこの場を清め、晃に憑いた霊を祓わなくてはならない。
唯は静かに胸の前で印を結んだ。

「……臨・兵・闘・者……」

呪を紡ぐのと同時に、素早く印を組み換えていく。

「……急々如律令!!」

空気が動く。
雑多なモノ達が四方へ散り始めたのだ。
突然、晃が目を開けた。
けれど視点は定まらず、ただ虚空を見つめている。

「……!?」

偶然触れた、晃の手。
それは、ぞっとするほど冷たかった。

(……何これぇ!?)

晃の手に、何か糸のような物が無数に絡み付いているのが見えた。
ぐるぐると腕に纏わりついていて、唯の顔に緊張の色が走る。
その先がどこに繋がっているのか、考えたくもない。
唯は慌てて偈頌を唱え始めた。

「……天魔外道皆仏性、四魔三障成道来、魔界仏界同如理、一相平等無差別!!」

「っぐ……!!」

跳ねるように、晃は身体をくの字に折った。
そして。

「晃!? ……晃!!」

もがき苦しむ晃は、白いシーツの上におびただしい血を吐き出した。

鬼病を祓う時、その術の反動で病者が吐血することはある。
その場合、吐血後は快方にむかうのだが。

(これは、違う!? ……まだ終わってない!!)

唯は己の血の気が引いていくのを感じた。

「一体どうし……っ!?」

騒ぎを聞きつけた晃の母親が二階に上がってくる。
そして部屋の戸を開けるなり、その状況に絶句した。

「おばさま、救急車!!」

唯は叫ぶ。
こちら側に繋ぎとめる為、掴んだ晃の手は冷たかった。