08.境界


真幸は夢の中で目を覚ました。
ここ数日、こんなことばかり続いている。
おかげでどれだけ眠っても、睡眠を取ったという充足感がまるで全く無い。
疲労は溜まる一方だ。
それでいて仕事はいつもの様に入ってくるし、一応学校にもちゃんと顔を出している。
休むと口うるさいのが若干名、一年生二人と某国語課教師だ。

夢の中。
そこではいつも銀色の靄がかかっていて、一メートル先も判別不可能な状況だった。

『……真幸』

その向こう、遥か彼方から自分の名を呼ぶ声が聞こえてくる。
どこまで靄の中を歩いていっても、その声が近くなることも遠くなることも無い。
けれど真幸は歩き続けなければならないのだ。

最初の頃は、ただ闇雲に歩き回り、そしてこの現象の大元である見えない誰かに向かって悪態を吐くだけだった。
だが、今日は違う。
やるべきことは決まっている。

銀の靄の中で、真幸は目を閉じる。
世界の中心は「自分」

「………………」

自分のほかに動くものが居ないはずの場所で、真幸の気を受けて空気が動き始めた。
時折、真幸を呼ぶ声が聞こえるだけで、あとは何の音も耳に届いてこない。

「……見つけたっ!!」

突然。
真幸は振り返って地を蹴った。
ふわり、と浮遊感が身体を包む。
「彼」の腰に佩かれた飾り太刀の柄を、伸ばされた真幸の手がしっかりと掴んだ。
そのまま鞘から太刀を抜き、「彼」の首に突きつける。

『……見事。この短期間で余を探し出すとは、驚嘆に値するぞ』

見えぬところに自分を監視する者がいることは気付いていた。

「教えてあげましょうか……。私、試されるのが一番嫌いなの」

『ほぅ。それはすまなんだ』

男は不敵な笑みを浮かべる。彼の藍色の衣が風も無いのに揺れた。

『近いうちに使者を遣わす。来やれ、余がもとへ』

そう言って、二本の指で真幸の額に触れ、突いた。

覚醒した真幸の耳に届いたのは、六時間目の授業が終わるチャイムの音だった。




「ねぇ、サキ。今日これからヒマ?」

「ヒマじゃない」

階段で擦れ違いざまにかけられた言葉を、真幸は冷たく跳ね除けた。
取り付く島も無いその様子に、若干慌てたのは声をかけたランス。
自分を無視して階段を下っていく真幸を回れ右して追いかける。

「ちょっと、話だけでも聞かない?」

「じゃあ聞くだけね」

通学鞄を肩にかけ、真幸は軽快にステップを下りる。

「今、アルファ棟に掃除で行ってたんだけど、あそこ、何かおかしくない?」

「いつものことでしょ。あそこは特に霊的立地が良くないのよ」

聞くだけと言いつつも、やはり尋ねられると反応してしまう。
真幸は内心舌打ちした。
表情に出さない真幸の不機嫌さを知ってか知らずか、擦れ違う下級生の多くが真幸とランスに向かって挨拶していく。
適当に彼らに返事をしつつ、男子相手にはいつも適当だが、真幸は階段を下りきった。

「そうじゃなくて……何か、新たな気配がする。特に美術室」

ランスが断言したことに多少興味はあったが、足を動かすことは止めない。

「間が悪いことに、今日アキラがそこの掃除当番らしいし」

「……ランス。悪いけど、今、自分のことで手一杯なの」

正面玄関までやってきて、ようやく真幸は足を止めて初めてランスの顔を見た。
ランスも今日初めてまともに真幸の顔を見たわけで。

寝不足らしい、不機嫌な顔。

普通に機嫌が悪い時は殺気が飛んでくるが、今日はそれすら無い。
どうやら本気で余裕が無いということがランスにも見て取れた。

「晃になにかあれば同じクラスの唯が気付くだろうし、あの子だって毎日私と遊んでるわけじゃないんだから、ある程度のことはどうにかできるでしょ。それでどうにもならなければ悠斗のトコに話を持って行きゃいいだけじゃない。別に私が一から十まで責任持たなきゃいけないわけじゃない……」

口早にまくし立てる真幸に驚いて、ランスは自分の口を噤んだ。
一方、真幸の方もランスの表情を見て言葉を止めた。
そして気まずそうに視線を少しずらして小さく息を吐く。

「……八つ当たり。悪かったわね」

「僕はかまわないけど。それよりサキ、疲れてる?」

「次から次へと色々ありすぎて頭がパンクしそうなだけよ」

そう告げる言葉の端々に、微かな苛立ちと疲労が滲み出ていた。

「まぁ、それほど急ぐことでもなさそうね……今日って木曜?」

「そうだけど……」

つい、と真幸の視線が上空に跳ね上がった。
それにつられてランスも真幸の視線の先を追う。
丁度ランスの頭と同じくらいの高さに、銀色の蝶が一匹、風に漂っていた。
真幸がそれに向かって手を伸ばす。
中指の先で触れた瞬間、それは薄い硝子が割れるような音を立てて砕け散った。

「……明日は、多分無理。明後日の土曜か週明け。それで良ければ見に行くから……」

どこか上の空で告げる真幸。
虚空を見上げたまま、何故かやけに疲れた顔をしていた。

「サキ、本当に大丈夫?」

「多分ね。じゃあ、また」

鞄を肩にかけ直し踵を返す真幸に、ランスは何もかける言葉を持たなかった。

今は、おそらく何者にも干渉されたくない時なのだ。
さして長い付き合いではないが、ランスにもそれくらいのことはわかる。
そしてそんな時に何か言っても拒絶されるだけだということも。
伊達に長生きはしていない。

(センセイに言っとくかな……いや、もうとっくに気付いてるか)

真幸と悠斗の付き合いは、自分とのそれより遥かに長く、深い。
真幸の不調も悠斗が気付いていないはずがない。
悠斗が誰よりも真幸のことを気にかけているのはランスも知っていること。
つまり、結局のところ。

(様子を見るしかないってことかな)

そう結論付け、ランスは自分も帰る為に教室に荷物を取りに戻った。



+ + + + +



目覚めた時、そこは知らない場所で。
あろうことか人間の世界ですらなかった。

「つーか、アンタ何様のつもりなの!? だいたいねぇ、人の意見も聞かないで好き勝手やってくれちゃって、ちょっとはこっちの都合も考えなさいよ!!」

「……ほんに、生きのいい娘よのぅ」

真幸に伸し掛かれ着衣の首元を引っ張られながらも、相手は落ち着いた様子だった。

「はぁ!? こっちは強制的に幽体離脱させられて、あまつさえ拉致られてるのよ!? こんなの初めてよ!! マジ有り得ない!!」

「余も娘子に押し倒されるのは今までに無い経験じゃ。押し倒したことは数あれど」

「アンタねぇ……真面目に話しする気あんの!?」

「安心せい。そなたは余の好みではない」

「……っ、そんなコト聞いてないわよ!!」

「で、そなたはいつまで余の上に乗っているつもりじゃ?」

「好きで乗ってるんじゃないっ!!」

天井の見えない石壁に包まれた広場に、真幸の声ばかりが響く。
この後、一方的な言い争いは三十分以上続いた。




ランスと別れてから真幸は自転車で家まで帰った。
晴れた日はたいてい自転車通学だ。
苛立ちを吹き飛ばすように全力疾走。
途中、擦れ違う人々が驚いて自分を振り返るのがわかったが、そんなことは全く気にならなかった。
マンションの自転車置き場にいささか乱暴に自転車を停め、郵便受けを見てからエレベーターに乗り込む。
自分の家に入り、ドアの鍵をかけたところで倒れた。

ここ数日、例の監視のせいで睡眠が浅い。
貧血気味でもあったのだが、だからといっていきなり倒れるほど疲労していたわけではない。
鬼国からの使者とやらに、突然肉体と霊魂を分離させられたのだ。
そしてそのまま鬼国まで運ばれ、現在に至る。

「……よくも斯様に一人で騒げるものよ。」

「別に……騒ぎたくって、騒いだ……ワケじゃないん、だけどね」

これだけ喚き続ければ当然息も切れる。
真幸は荒く肩で息をしながら言葉を紡いだ。

こうしていると自分の今の状態が霊魂だけとは信じられない。
肉体を伴っているのと変わらないように感じられる。
今までにも一度だけ鬼国に入ったことはある。
けれどその時は生身の身体をもってのことだった。

「これ、この者に茶を持て」

灰色の石の床でへばりながら相手を見上げる。

気に食わない。

何が気に食わないのかと言えば、彼の全てがだ。
時代がかったしゃべり方も、男のくせに長すぎる髪も、無闇に偉そうな態度も。
そして最大のポイントはこれだ。
顔が悠斗に似ていること。

「ところで今更なんだけど、アンタ誰?」

運ばれてきた飲み物に口をつけ、ようやく息が落ち着いたところで気になっていたことを切り出す。
実は言い争いの最中から気付いていたのだが、争っている当人の名を聞いていなかったのだ。
その気配と頭上に戴いた四本の角で、彼が鬼の一族に属する者だということはわかっていたが。

真幸の問いに、男は器用に片方の眉だけ上げ下げする。

「そういえばまだ名乗っておらぬか。余の名は青蓮鬼王雨月。鬼の一族を統べる者じゃ」

その偉そうな態度の理由はわかったが、やはりまたしてもカチンと来る。
けれどそれでは話が進まないので、ここは大人しくすることにした。

「……どこからが名前よ」

「舜と呼ぶが良い」

大人しく、するつもりだった。

「じゃあ、舜」

「なんじゃ」

「呼んだだけ」

「……まこと面白い娘よ」

そう言って、舜は呆れ半分感心半分の様子で笑った。
それもまた、真幸の気に食わない笑い方だった。

「さて、娘。そなたに聞かねばならぬことが一つだけある」

腰を落とし、舜は真幸と目線の高さを合わせる。
飾り太刀が小さく音を立てた。

「……人としての己を捨てることが出来るか?」

人差し指と中指で真幸の額の中央に触れる。
夢の時と全く同じ場所に。

「人と、人外の化物との境界線。そなたにそれを越える決断が出来るか?」

舜に触れられている額が熱い。
今までに知らなかった、感じたことの無かったプレッシャーが真幸を襲う。

――迷っている暇など無いよ……否応無く決断を迫られる。

舜の貫くような視線と真幸のそれとが交わる。

過日の鈴の言葉が、今になって真幸の胸の内に蘇った。