07.携帯電話


放課後を告げるチャイムが鳴り響いた。
それが消えるか消えないか。
どのクラスからもほぼ同時にガタガタと机と椅子が動く音とざわめきが聞こえてくる。
ガラリと勢い良くドアを開けて、担任よりも早く教室を飛び出していく生徒もいる。

そんな中で、終礼を終えた晃は自分の机と椅子を教室の後ろ側に寄せた。
放課後はまず掃除の時間だ。
一番後ろの晃が机を動かさないと掃除が始まらない。
机を動かし終わり、部活に向かおうとカバンを肩にかけたところで、クラスメイトから「待った」の声がかかった。

「晃、今日は俺らの班は美術室掃除だぜ。逃げんなよ」

「うっそ、マジで?」

首をひねり、クラスの掲示板に貼られている掃除当番表を見てみる。
あった。
確かに今日、木曜日は晃の班は美術室掃除に割り当てられていた。

「ほれ、行くぞ」

「俺、今日部活あるんだよー」

そんなことを言ったって始まらない。
放課後に部活があるのは晃だけではないのだ。
階段を下り、校舎裏の昇降口から出る。
屋根付きの渡り廊下を歩いて、目指す先は美術室のある特別教室棟、別名アルファ棟。

何故アルファ棟と呼ばれるか。
その由来はたいして複雑ではない。
単に教室番号が「α−101」とか「α−203」といったように付けられているからだ。
けれど教室は「美術室」とか「生物実験室」としか呼ばれない。
何の為に番号が付いているのか、いまいち誰も理解できない。
ちなみに部室棟の通し番号は「β」だが、こちらは普通に部室棟と呼ばれている。

放課後が始まってすぐのアルファ棟は、掃除に訪れた生徒たちで意外と人が多い。
晃達の掃除場所である美術室は一階の一番奥にある為、そこまでの廊下では色々な学年クラスの人間と顔を合わせた。
当然、知った顔もいくつかあるわけで。

「あっ、と、ランス先輩……」

廊下の向こう側に見えた知人の顔に、思わず晃は一歩廊下の隅に寄った。
長身で金髪の彼はどこに居ても目立つ。
というか、女子の集団の真ん中にたいてい発見できる。

「やぁ、アキラ。これから掃除?」

及び腰の晃に、ゴミ箱を二つ抱えたランスは爽やかに声をかけた。

「えぇ、まぁ、そうです。美術室の……」

「……Art room?」

一瞬、微かに眉根を寄せたのが見て取れた。
何故そんな顔をするのか、晃には全く理解できなかったが。

「何か、ありました?」

「ん、いいや。何でもないよ。気をつけて行っておいで」

「はぁ。ランス先輩こそゴミ箱二つも抱えて転ばないでくださいよ」

「アキラが心配してくれるなんて嬉しいね」

そこでウインクが一つ。
晃は後ずさってあからさまにそれを避けた。
そんな晃の様子を見て、ランスは面白そうに笑った。

「いや、心配とかじゃなくて、普通一人で二つ持てるサイズじゃないっていうか、先輩のクラス、掃除早いっすね……」

わたわたと弁明する晃に笑いをこらえるランス。

「女の子にゴミ箱持たせるわけにもいかないからね。それより、アキラも早く行ったら?他の子に置いて行かれてるみたいだよ」

周囲を見回すと、同じクラスのメンバーの姿は何処にも無い。
晃とランスがじゃれあっている間に、彼らは彼らの目的地へ向かっていて。

「うわっ、じゃあ失礼しますっ!!」

一人取り残された晃は、慌てて美術室へ向かった。
勢い良く美術室の扉を開けたときには既に掃除は始まっている。
箒などの楽な仕事はとっくに他のメンバーに取られていて、晃に割り振られていたのは棚の雑巾がけだった。

「冬じゃなくてよかったなー、晃。まだ残暑が厳しいから雑巾がけも楽なもんだろ?」

「じゃあ、お前がやれっつーの!!」

無責任な言葉を投げかけてくる友人に、晃は後ろから蹴りを入れる。
その蹴りは背中にクリーンヒットし、相手は箒を抱いて床とキスする羽目になった。

ぶつぶつと文句を言いながらも、晃は固く絞った雑巾を手に掃除を始めた。
日光を考慮した結果か、この美術室は北向きの窓しか作られていない。
けれど、かなり大きな窓なので息苦しさや北向き特有のジメジメ感は無い。
所々に油絵具がこびり付いてはいるものの、出来て日が浅い教室は概ね清潔でキレイだった。
ただ、デッサン用の石膏像や静物画用の果物などが置かれた棚は、使用しているのが一般生徒の為か雑然としている。
その隣の整然とした美術部用の棚とは大違いだ。

「あー、何で俺こんなことやってんだろ……」

変なところで几帳面な晃は、雑巾がけをしながら勝手に棚を整理し始める。
石膏像は右、果物は左、それぞれ分けながら整理を続ける。
と、途中でその手が止まる。

「なんだ、こりゃ?」

棚の奥の方に転がっていたモノ。
誰が持ち込んだのか、全く見当がつかない。

「あ、懐かしー。リカちゃん人形?」

わけがわからず手に取った人形をクラスの女子が目ざとく見つける。

「晃のか?」

「バーカ、違ぇよ。そこに転がってたんだよ」

棚の奥をあごで示す。

「誰かの忘れ物じゃない?」

「普通、学校にリカちゃん人形なんて持ってくる?」

「どーする?先生のとこ持ってく?」

「えー、面倒くさいよ」

そこまで話が進んだところで、一座の視線が晃に集中する。

「……何だよ」

「見つけたのは晃だから、お前が責任持って片付けろってことで」

「あとヨロシク〜」

掃除は既に終わっていたのか、晃に背を向けて皆はぞろぞろと美術室を出て行く。

片手に雑巾、そしてもう片方の手に人形。
一体どうしたものかと晃は逡巡し、左右を二度三度見てから元あった場所、棚の奥の方に人形を押し込んだ。

(……見なかったことにしよう)

あっさりと良心は捨てられる。
もうそろそろ部活が始まる時間だし、わざわざ職員室に行くのも阿呆らしい。
職員室は普通教室棟で、部室棟とは方向が違う。
ついでに今日は文化祭に向けたミーティングがあるので部活に遅刻したくないのだ。

雑巾を洗って干してから、晃は美術室を出る。
これからこの場所を美術部が部活で使うかわからなかったが、誰も姿を見せないのでドア脇の電気のスイッチをオフにした。
途端に薄暗くなった室内を一陣の風が吹き抜ける。
窓も開いていないのに。

(何もない、よな……)

自分自身に言い聞かせるようにして晃はドアを閉める。
誰かの笑い声を聞いたような気がした。



+ + + + +



最終下校時刻よりもだいぶ前に、写真部のミーティングは終わった。
もし真幸やランスの、通称心霊委員会の溜まり場になっている第二進路指導室に誰か居るようならそこに寄ろうと思っていたが、部室棟の入り口から見たその部屋に明かりはついていなかった。
仕方なく晃はそのまま家路につく。
幸い、駅までは部活仲間と一緒だった。

晃は三駅離れた自宅から電車通学だ。
この辺りは住宅地が多い為、徒歩や自転車での通学者もそれなりに多い。
駅前から出ている路線バスを利用している生徒も居る。
自家用車というのは、さすがに居ない。

「じゃ、またな」

「また明日」

駅の改札で友人と別れる。
定期を出そうとした時、後ろポケットに入れていた携帯電話が突然鳴った。
ストラップを取って携帯を引っ張り出し、晃は通話ボタンを押した。

「もしもし?」

『………………』

長い沈黙の後に聞こえたのは、微かな笑い声だった。

「……なんだ?」

発信元を見ても、非通知設定としか出ていない。
タチの悪い悪戯かと思い、晃はそのまま電話を切った。

改札をくぐり、階段を上ってホームで電車を待っている間、またしても携帯が鳴った。

「……はい」

今度も相手は非通知設定で、無言電話。
そして微かな笑い声。

「くだらない悪戯してんじゃねーよ!!」

苛立った晃は電話を切って、携帯をマナーモードに切り替えた。

ホームに電車が滑り込んでくる。
夕方で帰宅ラッシュの時間帯だが、都心に向かう上り列車の乗客はかなり少なかった。
晃はいつもと同じように前から三両目先頭のドアから電車に乗る。
座席はいくつか空いていたが、たいした時間乗っているわけでもないので、手すりにもたれて立ったままでいた。

十分ほどして地元の駅のホームに降り立つ。
車内でマナーモードにしていた携帯を取り出すと、そこには五件の着信履歴が記録されていた。
どれも同じ非通知設定。

「……気味悪ぃ」

このまま電源を切ってしまおうかとも考えたが、それも不便なのでマナーモードだけ解除して後ろポケットに入れようとした時。
再び着信のメロディーが鳴り響いた。
晃は手の中の携帯を見つめ、意を決したように通話ボタンを押した。

「いい加減にしろ!!お前、誰なんだ!?」

思わず口調が荒くなる。

『…………私、リカ――』

沈黙の後に高い少女の声が聞こえ、そして切れた。

ぞくり、と。
晃の背に悪寒が走った。
震える指で携帯の電源を切ると、晃は歩き始める。
自然と足は速くなっていった。
人通りの多い駅前商店街を抜け、途中で買い物中の近所の小母さんとすれ違ったが、そんなものは晃の視界に入っていなかった。

(この感じ、ヤバイかも……)

余計なことを考えないようにしながら、晃はひたすら足を動かすことに集中した。
何故か毎日通っている道が長く感じられる。
急いでいるのに、中々家が見えてこない。

それでもどうにか家に辿り着いた晃は、鍵を取り出してドアを開けた。
家の中に入ると、慌ただしくドアの鍵をかける。
珍しく誰も居ないのか、家の中は暗かった。
何か嫌な空気を感じ、晃は玄関と廊下、そして居間の電気を全て点けた。

もうしばらくしたら、家族は帰ってくる。
母親は買い物に行っているだけだろうし、父親はもう少し遅いかもしれないけれど、妹と弟は部活を終えてそろそろ帰ってくる時間だ。
そう自分に言い聞かせる。

――トゥルルルル……

不意に、静かな家に電話のベルが響いた。
廊下の電話台の上に載せられたファックス兼用の電話が着信を主張している。

しばらくすれば留守番電話に切り替わるはずだ。

けれど、どれだけコール音が続いても、それが途切れる気配は無い。
晃は思わず生唾を飲み込んだ。
そろりと近付いて、ナンバーディスプレイを覗き込む。
そこにはやはり「非通知設定」の文字。

冷や汗があごを伝い、受話器へと伸ばした手の甲に落ちた。

「……もしもし」

口の中が乾いて嫌な味がする。

『私、リカちゃん……』

弾かれるように、晃は耳から受話器を離した。
電源を切ったはずなのに携帯が鳴り始める。
それがポケットから落ちて、床の上でアップテンポのメロディを奏でている。
心拍数が急激に上昇していくのがリアルに感じられた。

「今、アナタの後ろに居るの……」

最後に覚えているのは、子供特有の舌ったらずの高い声。

その声は晃のすぐ真後ろから聞こえた。