06.レトロ


プロメテウス。
かつて、天上の火を人間に与えた巨人。

それと同じ名を持つ高層ビルは、新宿の都庁に近い都心部にあった。
広い、閑散としたエントランスには受付嬢が二人。
一階には待ち合わせ用のソファがいくつか、それに喫茶店。
エレベーターホールにはエレベーターが四台あった。
うち、手前の二台は階数表示が一桁のみ。
奥の二台はさらに上まで通じているが、それに乗るにはまずIDカードとパスコードが必要なガラス扉を開けなくてはならない。

この場所、協会の本部ビルを訪れる人間は多種多様。
フリーター風や背広姿の会社員風、一見主婦にも見える女性に学生らしき人間も居る。
ただし、一度に訪れる人数はけして多くない。
入り口の自動ドアから受付嬢の前に来るまでに、彼女たちが来訪者をそれぞれ照会できるくらいに。

その日の夕方、学校帰りの真幸はこのビルの中に居た。
先日ランスと手がけた仕事の報告書を持って来たのだ。
別に報告はメールでもファックスでも、郵送であっても構わない。
それでもわざわざ持って来たのには、報告以外にも用事があるからに他ならない。

関係者専用のエレベーターで上がり、本当の受付で報告書を渡す。
その後の細々とした手続きを終えて、真幸はやれやれと言わんばかりに肩を回した。
その足で、階段を登る。
受付の上のフロアはラウンジになっていて、依頼書の貼り付けられた掲示板があったり、知り合いの能力者同士が談笑している姿が見られたりする。
裏の情報やウワサ話が交換されるのもこの場所だ。

真幸が本当に用事があるのはここではないが、本部に顔を出した時は惰性で掲示板をチェックしてしまう。
協会に入りたての新人の頃、躍起になって仕事を探していた名残だ。
特に目ぼしい情報も無く、そもそも仕事を探しているわけでもないので早々に前を通り過ぎる。

「……あの、真幸様」

「織江?」

足早にラウンジを通り抜けようとする真幸に声をかけたのは、普段はここに寄り付かない織江だった。
思いがけない出会いに、真幸は驚いて軽く目を見開く。

「珍しいね。恭也は?」

真幸の頭には織江と恭也はワンセット、という思いがある。
その思いは先日遊園地に出かけた時のことでさらに強化された。

「お兄様はIDカードの発行手続きがあるとかで」

「へぇ。まさか無くしたってわけじゃないわよね。ランクでも上がるの?」

真幸の問い掛けに、織江は小さく頷いた。

真幸と恭也は、ほぼ同期。
けれど昇級に関しては真幸の方が一歩以上リードしている。
こなす仕事量が半端でないことも理由の一つだが、それを差し引いても異例のことだ。
対する恭也は真幸には劣るものの、こちらも昇級スピードは並以上。
彼と妹の織江が手がけた神事や祓えの儀、御霊会などは高く評価されている。

「それで珍しくココに居るのね。どう?」

「ちょっと、怖いです。知らない方ばかりで」

それはそうだろう。
こういった場所に出てくることなど滅多に無いのだから。

「そっか。じゃあ、誰か紹介してあげる」

「え、でも……」

周囲を見渡しながら、あまり気乗りしない様子の織江の手を取る。
ラウンジにたいして人は居ないが、そのほとんどの人間は真幸の顔見知りだ。

「あのね、今は織江は恭也と一緒に仕事してるからいいけど、いざって時の為にも知り合いは……味方は多い方がいい、絶対に」

織江はただでさえ人見知りが激しい。
紹介すると言っても、男なんてとんでもない。
そこで窓際のソファに居るコーヒー片手に雑誌を眺めている女性に目を留める。
織江の手を引いて、真幸はその女性の方に進んでいった。

「由紀姉、久しぶり」

「あら、真幸ちゃん。お元気?」

真幸の声に顔を上げたのは、二十代後半の柔和な目をした女性。
彼女は真幸の連れに目をやり、少し驚いたようだった。

「そちらは?」

「橘織江。私の友達。いい子だから、由紀姉も友達になってあげてよ」

「あの……初めまして」

真幸に押し出されながら、織江は由紀に向かって一礼した。

「初めまして。私は宇多川由紀。織江ちゃん、よろしくね」

「こう見えても由紀姉は一児の母なのよ。知らずに狙ってる輩は多いけど」

真幸と由紀が笑うので、それにつられて織江も思わず笑った。

「今日はお仕事で来たの?」

「報告書出しに。あとは上のおばーちゃんのトコに寄って行こうと思って。……そうだ。織江、いい所に連れてってあげる」

「え、あの?」

突然話を振られて、織江は生返事をした。

「由紀姉、まだここに居る?」

「えぇ。人と待ち合わせがあるから、あと三十分くらいは」

「この子の兄貴、知ってるよね」

「もちろん。恭也君でしょう?」

橘兄妹は協会内ではなかなかに有名である。
織江の方はともかく、兄の恭也の顔を知っている人間は少なくない。

「もう少ししたらラウンジに来るはずだから、そうしたら『アンタの妹は預かった。返して欲しけりゃ貢物持っていらっしゃい』って伝えてくれる?」

「OK。原文そのままに伝えるわ」

クスクスと笑いながら、由紀は快く伝言役を承諾してくれた。
由紀に礼を述べると、真幸は状況を掴めていない織江の手を再び引いてエレベーターに向かう。
向かったのは普段なら使うことの無い二十五階以上への直通エレベーター。

「あの、真幸様。一体何処に……」

「織江って占いとか興味ある?だったらいい所。無くても、まぁ私に付き合ってくれる?」

扉が開いて、真幸が押したのは二十七階のボタン。
静かな音を立てながら、二人を乗せた箱は上昇していった。



+ + + + +



真幸と織江が降りた二十七階は、とても奇妙なフロアだった。
天上は高く、床はタイル張り、脇には街灯が立っている。
まるで映画スタジオのように、ビルの中にもう一つの街並があった。
廊下の右側のブロックには京都の町屋を思わせる建物、反対側にはアーリーアメリカンタイプ、奥に行けばログハウス風や石造りのバロック風。
そして、それぞれに相応しい街の装飾。
いずれにしてもレトロな雰囲気で、まるで屋内テーマパークだ。
慣れた様子で進む真幸の後ろを、織江がおっかなびっくりついて行く。
どこもひっそりとしていて、まるで人の住んでいる気配が無かった。

「……それぞれ、結界が張ってありますね」

「悪意を持ってなければ通り過ぎるくらい大丈夫よ」

おどおどしていても、やはり巫女。
隠された結界にも敏感に反応する織江に真幸は感心した。

真幸が進んでいくのは古い日本風の家屋が並ぶ道。
その中のひさしのついた戸をガラリと開ける。

「こんにちは。おばーちゃん、お邪魔しまーす」

返事は無かったが、真幸は靴を脱いで家に上がりこむ。
織江は一瞬躊躇ったが、真幸に倣って靴を脱いだ。
靴を揃えてから顔を上げると、そこには一匹の黒猫が音も無くたたずんでいた。

「おばーちゃんに取り次いでもらえる?」

真幸が話し掛けると黒猫は短く一声鳴き、案内するように二人の前を進み始めた。
黒猫の後ろを静々とついていく二人の少女。
傍目には不思議な光景である。
猫は牡丹の描かれた襖の前で歩みを止めた。
「ありがとう」と真幸が言うと、猫は一鳴きして姿を消した。

「おばーちゃん、真幸です」

廊下に膝をついて中にお伺いを立てる。
向こう側から「お入りなさい」との声が聞こえてから、真幸は静かに襖を開けた。

「良く来たねぇ、二人とも」

囲炉裏のある部屋。
その雰囲気に相応しく、藍色の着物姿の小柄な老女が窓際にたたずんでいた。
一瞬、広縁の外に日本庭園を想像してしまうが、実際に広がる景色でこの場所がビルの上階だということが思い出される。

真幸は中に入り、囲炉裏の脇に座った。

「お久しぶりです。織江、こちらの方は鈴大姉。皆、占いおばーちゃんって呼んでるけど」

織江は上品に床に指をつき頭を下げる。

「初めまして、鈴大姉。私は橘織江と申します」

「あぁ、堅苦しいのはやめておくれ。私のことは鈴おばーちゃんで良いからね。大姉なんて呼ばれるのは性に合わないよ」

ころころと笑う姿の可愛いおばあちゃんだ。
鈴は真幸達に座布団を勧め、自分は近くの籐の揺り椅子に腰掛けた。

「さて、今日二人が訪ねてくるのはわかっていた。年寄りになると娯楽が少なくてねぇ。楽しみにしていたよ」

「鈴おばあさまは先見でいらっしゃるのですか?」

「先見なんて、大層なもんじゃないよ。私はただの占い婆さね」

襖の外側で猫の鳴く声が聞こえた。
真幸は立ち上がって襖を開く。
そこにはお盆に載せられた三人分のお茶とお茶菓子があった。

「おばーちゃんの占いは良く当たるわよ」

それらを配りながら、真幸は織江に言う。

「どれ、何か占ってあげようかねぇ」

「あの、でも……」

「恋占いとか、どう?」

織江の隣に腰を戻した真幸が冗談半分で勧める。
困ったような表情で織江は首を横に振った。

「まぁ、今日相談があるのは真幸お嬢ちゃんの方みたいだからねぇ」

茶碗に口をつけてから立ち上がった鈴は、アンティークな薬棚の引き出しを開ける。

「ねぇ。おばーちゃんは占いに何を使うと思う?まさか、亀の甲羅とか鹿の骨を取り出すなんて思ってないわよね」

「あの、そういった物が相応しい気もしますけど……」

亀の甲羅も鹿の骨も、古来行われてきた太占の法に使われる。
鈴が持ってきた物を見て、織江は驚いた。

「タロットカード……!!」

「おばーちゃんはね、魔女の末裔なのよ。純和風の人だけど」

床に紫色の布を広げるのを手伝いながら、真幸はからかうように言った。
着物姿の老女からは全く想像出来ない事実に、思わず織江は言葉に詰まった。

「さて、何が知りたいのかね?」

「私の……近い将来について」

真幸の答えに頷いてから、鈴は真幸にカードを混ぜるように指示した。
そして自分も床の上、真幸の正面に座る。
その様子を織江は真幸の斜め後ろから見つめている。

「……カードが、ざわめいているね」

真幸が切ったカードを手に取った鈴は、小さな声でそんなことを呟く。
真幸は一度鈴の顔を見たが、鈴は真幸の顔を見なかった。
そして真幸も床上に展開されていくカードに視線を戻す。

「……お嬢ちゃんは悩んでいる。漠然とした不安。けれど、迷っている暇など無いよ。お嬢ちゃんの思いとは関係無く状況は刻一刻と変化して、否応無く決断を迫られる。過去と現在における決別、そう、親しい人間との別離が訪れるかもしれない」

淡々と紡がれる鈴の言葉には重みがあって。
それが真幸だけでなく、織江の心にも響いてくる。
真剣な顔をした真幸が膝の上で手を握り締めるのを織江は見た。

「完全な別れになるかどうか、それはお嬢ちゃん次第……。何かを喪うかもしれないけれど、それに罪の意識を感じることは無いよ。大切なのは信じること」

「信じる……何を?」

硬い表情のまま、真幸は問い掛ける。

「全て、だろうねぇ」

鈴は愛しそうに年代物のカードを撫でた。
言葉には力がある。
未来を決めるのは道具ではなく、それが示すものを言葉に出して読む占者だ。
占いは言葉に左右される。

「続けるよ。お嬢ちゃんは非常に強い星の下に生まれている。必ず助言者は現われる。逃げてはいけないよ、道が途絶えてしまうから」

「つまり、いつでも前向きに生きろってことかしら」

真幸の口元が緩んだ。

「そう。これから起こる事は全て起こるべくして起こる事。何人といえども避けることはできない。けれどね、何時でも事態を好転させるチャンスは隠れている……」

何時の間にか黒猫が近寄ってきていて、鈴はそれをひょいと膝の上に載せた。
そしてその頭を撫でながら、真幸に笑いかける。

「恋占いが必要なのは、どうやらお嬢ちゃんのようだよ」

「まさか」

「恋を暗示するカードが出てる。まだ遠いかもしれないけどね」

骨の浮いた指で一枚のカードを示す。

「LA ROUE DE FORTUNE……?」

釈然としない顔でカードを読み上げる真幸。

「全ては巡る。さぁ、お客様がお帰りだよ。お見送りしておあげ」

鈴の膝から下りた猫が、来た時と同じように真幸の前に立つ。
真幸は腰を上げた。

「おばーちゃん、また近いうちに遊びにくるね」

「あぁ、そうしとくれ。困った時ばかりに来られても私はつまらないよ。今度はそっちのお嬢ちゃんも占ってあげるからね」

元のように揺り椅子に戻った「おばあちゃん」は織江に向かって手を振った。
それに頭を下げ、織江は真幸を追った。




「今日は、付き合ってくれてありがと」

下りエレベーターの中で、真幸は織江にそう言った。

「いいえ。私こそ宇田川様や鈴おばあさまを紹介してくださってありがとうございました」

「……たまには本部に顔出すのも悪くないでしょ?」

いつもの様にやさしく織江に笑いかける真幸。
今日ばかりはそれが仮面だと気付いたが、織江は何も言えなかった。