03.鬼


何処からか銀色の燐光を放つ蝶が現れ始めた。
……ひらり。
一匹、また一匹とその数を増していく。
……ひらり。
優雅に不規則に空中を移動しているだけではなく、彼らは彼らなりの定められた行動様式を披露しているようだった。
次第にある一点の密度が濃くなる。
すると、それぞれ全く同じにしか見えない蝶が、まるで鏡に頭を打ちつけるかのように別の蝶に身体をぶつけた。

パリン、と硝子が弾けるような甲高い音が微かに悠斗の耳に届いた。
それ以前に室内の異質な気配に悠斗は目覚めていたが、あわよくば気付かぬ振りのままやり過ごそうと目論んでいた。
けれど。

『……悠、余相手に狸寝入りなど、そなたは何時から斯様に尊大になったのじゃ?』

蝶達が互いの身体をぶつけ合い消滅していくその中心から、確かに人の声が聞こえた。
高く通る声。
崩れていく蝶の粉が一人の男の姿を成した。

「……勘弁してくれよ……明日は一時間目から授業があるんだって」

悠斗は布団の中で寝返りを打った。
見たくない物から目を背けるかのように。

『忙しい身で時間が惜しいのは余も同じこと。なればこそ狸寝入りは見過ごせぬ』

だったら使いの者でも寄越せば良いじゃないか、と悠斗は心の中で毒づいた。

『それに重要な話がある故、他の者に任せるのもどうかと思っての』

悠斗の言いたい事を見透かしたような、実際見透かされているような気もするが、彼の言葉に悠斗はベッドの上で半身を起こす。
ベッドの脇、丁度足元のあたりに男の姿はあった。
銀色の蝶の中で彼の姿は淡く輝いて見えた。

『ようやく起きおったか。余とそなたの一大事だというに』

「……舜、一体全体何の用なんだ」

長い髪を結い上げた、四本の藍色の角を戴いた頭を舜は軽く傾ける。

『なに、そなたの元服と婚礼の話じゃ』

確かに、それは一大事のように思えた。

「…………って、婚礼!?」

まずは自分の耳を疑った。
そして一気に完全覚醒。

『万が一つにも間違いがあってはならぬ。元服の儀は小雪から大雪の頃の吉日と考えておるが、悠、そなたは心安く待つがよい。万事、余が心を尽くす』

「そうじゃなくて!!」

大声を出してから、今が真夜中だということに気付く。
安アパートでもないし、ちょっとやそっとじゃ隣近所に響かないだろうが。
そうは思いながらも悠斗は声のトーンを下げて舜に食い下がった。

「婚礼って何の話だよ」

『そなたの婚礼に決まっておろう』

さらりと。
舜の交わし方について、「お前は流し素麺か」などと悠斗は自分でもわけのわからないことを考えた。

『そなたに美味に食されては困るのう』

「いや、悪かったから。でも何で急にそんなことを言い出す?」

『急ではなかろう。元服に合わせ婚礼の儀を執り行なうは神祖の世からの慣わし。何ぞ戸惑うことあらん』

じゃあお前の結婚はどうなってるんだと、三百歳は軽く年上の幼馴染に向かって胸中で呟きながら、悠斗は落ちてきた前髪を忌々しそうにかき上げた。
そしてサイドボードの煙草に手を伸ばす。

「……まだ早い」

舜の纏う彩とは異なった、オレンジ色のライターの炎が悠斗の手元に灯った。

『早いことなど無い。遅すぎるくらいじゃ』

紫煙を吐き出す。

「彼女は何も知らないんだ。封印だってまだ……」

『なれば』

舜は一度、息を継ぐ為に言葉を区切った。
指先に銀の蝶を遊ばせている。

『知らぬことは教えれば良い。封印も解けば良いだけのこと』

再び言葉を止める。
今度は息継ぎではなく、舜は柳眉を寄せて小さく嘆息した。

『……先の新月の夜、余の水盤に計都星が現れおった。世は、乱れようぞ』

「…………」

灰が落ちそうになり、悠斗は慌てて煙草を灰皿に押し付けた。

『そなたの意向がどうであれ、元服の儀だけは何としても行わねばなるまい。早々に名を継いでもらわねばならぬ』

「……それに関しては、異論は無い。ただ、日取りがな」

語尾を濁して悠斗は考え込む。
小雪から大雪の頃と言うと、現代で言えば十一月下旬から十二月上旬。
その時期とは高校生にとっては丁度期末試験にあたる。
当然高校で教鞭を執る悠斗にとっても無関係ではいられない。

「どうせ準備とかで一週間はこっちを留守にしなきゃならないんだろ。だったらもう少し早く、そうだな、立冬の後くらいまで前倒しできないか?」

『ふむ、良かろう。詳しくは追って沙汰する。それと、あの娘のことは余に任せい。しばし様子見としよう。封じたのはそなたでも、それを解くのは余の務めじゃ』

銀の影が薄くなり始めた。
時間だ。

『相応しいか、否か。今更それを論じても仕方あるまい。全てはそなたが選んだこと』

「……そうだよ。全部、俺の責任だ」

『己を責めても始まらぬ。今宵はゆるりと休め』

段々と蝶達の姿が消えていき、最後には舜の声だけが残った。

『悠、そなたが宮を訪れる日を楽しみにしておるぞ……』

そして、その声も消える。
部屋にはいつもの静けさと暗闇が戻った。

舜には休めと言われたものの、中途半端な時に起きてしまったからか、中々眠気も訪れない。
それでも悠斗は肩まで布団を引っ張り上げ、目を閉じて羊の数を数え始めた。
それが功を奏したのか、カーテンの外が明るくなる前にはなんとか浅いまどろみの中に落ちることが出来た。



+ + + + +



「ねぇ、悠斗。あんた、今すっごく不細工な顔してるわよ」

「……せめて寝不足顔って言わない?」

移動教室の途中なのか、階段付近で出会った真幸は教科書とルーズリーフに筆箱を小脇に抱えていた。

「言わない。だってホントに不細工顔」

凛々しい寝不足顔というのはあまり聞いた事が無い。
悠斗は溜息をつきながら、自分の顔を指す真幸の手を下げた。

「次、教室移動なんじゃないの?」

「うん、生物実験室。なんか、先生が実験したいらしい」

「ああ、三年二組の生物って黒田先生だっけ。あの人、実験大好き人間だから……。こらー、階段走るなー」

脇の階段を駆け下りていく男子生徒達をやる気の無い声で注意する。
生物の教科書を持っているところからすると、彼らは真幸のクラスメイトだろうか。

「真幸も早く行きなよ。実験室、遠いんだから」

実験室やら美術室を一つにまとめた特別教室棟は、通常の教室棟から離れた場所にある。
十分の休み時間の間に移動するには少々遠い位置だ。
国語課の授業で使うことはまず無いので、悠斗自身は滅多に足を踏み入れることの無い場所ではあるが。

「ん。悠斗、ちゃんと寝なさいよ」

「教師は授業中に寝れないからねぇ」

持った出席簿でトントンと自分の肩を叩く。

「馬鹿。家に帰ってからに決まってるでしょ」

言い捨てて階段を軽い足取りで降りていく真幸の後姿を見送って、悠斗は職員室へと踵を返す。
そして。
別々の方向に向かう彼らを、銀色の蝶は追っていった。