蝉の死骸


……ミーンミーン…………


夏の日はアスファルトの照り返しが厳しい。
愛車を止めたパーキングから待ち合わせ場所まで五分もかからないと油断した。
面倒くさがらずに日傘を持って出れば良かったと後悔してももう遅い。
出来る限りの早足で目的地の喫茶店に急ぐけれど、今度は鼻の頭に汗が噴出した。


カラン……


店の戸を開けると上の方に付いた鐘が鳴った。
中を見回して彼女がまだ来ていないことを確認し、それから私は窓際の席に座った。
入り口も良く見えるので、こうすれば彼女が何時来てもすぐにわかる。
私は置かれたメニューの中からアイスコーヒーを注文する。
店内は冷房が効いていて先程まで浮いていた汗の玉は既に引いていた。

五分後、待ち合わせ相手のユキエが現れた。
ごめんなさいね、とはにかみながら謝る彼女は記憶の中のユキエと何も変わらなかった。

「久しぶりねぇ、サチコ。三年振りになるかしら。いつ日本に戻ってきたの?」

「十日くらい前よ。中々引越しの荷物が片付かなくて」

「サチコは昔から片付けが苦手だったものね。言ってくれれば私もショウゴさんも手伝いに行ったのに」

ユキエはオレンジジュースを頼んだ。
この子は昔からコーヒーも紅茶も駄目なのだ。

「そんなの悪いわよ」

「そんなことないわ。私たち、幼馴染じゃない」

彼女の無邪気な笑顔に私は優しく苦笑した。

「平気よ。それ程荷物は多くなかったし」

こうしてお茶をしながら話していると昔のことを思い出す。
私とユキエと、そしてショウゴが居て、三人で馬鹿な事をたくさんやった。

「この時期になって蝉の鳴き声を聞くと思い出すわ。昔、裏の林で蝉の抜け殻を集めたわね」

「あぁ、小学生の時? そういえばあなたは嫌がって触りもしなかったわね」

「今でも駄目よ。何かリアルで怖いんですもの。その点サチコは全然平気だったわね」

私たちが生まれ育ったのは関東の片田舎で、幼い頃は皆で林に秘密基地なんか作って遊んでいた。
地元の高校を卒業してからショウゴと私は東京の大学に進学して、それぞれに大手コンピューター会社と外資系会社に就職した。
ユキエとショウゴが結婚したのはそれから二年後のこと。
同時期に大きなプロジェクトを初めて任された私は、二人の結婚式を見ることなくアメリカに飛んだ。

「懐かしいわね。実家のほうには帰っているの?」

「お盆とお正月には帰ることにしているわ。でも父も母も会うたびに孫の顔が見たいって五月蝿いのよ」

「そりゃあそうよ。ユキエは一人っ子なんだし、初孫が待ち遠しいんでしょう」

おそらく、私は穏やかに微笑みながらこの言葉を吐き出したのだろう。


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帰り際になってユキエがこんなことを言った。

「蝉って七年間も地面の下にいるのよね。それなのに地上で生きるのはたった一週間。切ない生き物よね」

「なぁに? 久しぶりに親友に会って感傷に浸ってるの?」

「ねぇサチコ。例えばね、七年間ずっと好きで、一週間だけその想いが叶う。そうして人魚姫のように泡になって消えてしまう……。そんな恋、どう思う?」

夕焼けを見つめながらも、ユキエはそれよりもさらに遠い何かを見ているようだった。

「どうって言われても、多分私には耐えられないわよ」

私は会計を済ませるために立ち上がった。

「また近いうちに会いましょう。しばらくはゆっくり出来るし」

「えぇ、そうね。今度はうちに遊びに来て。ショウゴさんも喜ぶわ」

ユキエは最初から最後まで微笑を絶やすことなかった。
それはいつも私の後ろに隠れていたかつてのユキエではなく、彼女の薬指に光る指輪が与えてくれる「何か」の恩恵のようにも思えた。

ユキエを近くの駅まで送って私は車を止めたパーキングまで戻った。
白いボンネットの上には一匹の蝉の死骸が転がっていて、私はそれを手で払い除けてから車に乗り込んだ。