バレンタイン
その日、私は壁にかけられたカレンダーを見て叫びたくなった。
実際には大声を出したわけではなく、頭の中で様々な事象が光速で駆け巡っただけなのだけれど。
ダイニングの棚に立てかけているたくさんの本を次から次に引っ張り出す。
あぁ、こんなことなら普段からもっと整理しておけば良かった。
そんなことを考えている暇は、今は無い。
ページを繰る指を素早く動かすだけで精一杯。
「あ、あった……!!」
ようやく目当てのページを見つける。
「紙とペン、紙とペンは……」
最初から用意しておけば良かった。
今日はそんなことばかりで泣けてくる。
書かれた内容を大急ぎて書き写す。
そして冷蔵庫と棚の中味とそのメモを照らし合わせ、今度は足りている物をリストから削除していく。
最終的にリストアップされた物は、どれもこれも近場のスーパーで手に入れにくい物ばかり。
時期が一月前ならば嫌になるほど見たというのに。
私は財布と携帯、そしてそのメモを持って家を飛び出した。
慌てていてマフラーを忘れたが、最近は暖かいので、さほど苦にならなかった。
大通りでタクシーを捕まえる。
行き先を告げ、私はようやくそこで一息ついた。
(行って帰って、それで、作るのにどれくらいかかるっけ……?)
頭の中で素早く計算。
ここ最近、こんなに一生懸命に頭を働かせたことは無かった気がする。
そもそも何かに真剣になることが久し振りで。
(でも、なんか楽しいかも)
こんな気持ち、ずっと忘れていた。
そう、春の気配はすぐ其処まで来ている。
+++++
その日、僕は壁にかけられたカレンダーを見て頭を抱えた。
実際に頭を抱えたわけではなく、傍から見たら呆然と突っ立っているだけだったろうが。
行動を起こそうにも、そもそも僕の方から何かをするというのは変なような気がして。
そんな風に悶々としている所へ、まゆさんから電話があった。
『あっ、あのね、今からそっちに行っても平気!?』
いつになく、と言っても知り合ってからそう長いわけではないが、焦った様子。
「大丈夫ですよ」と僕が答えると、彼女は挨拶もそこそこに電話を切った。
一体、何の用事なのだろう。
僕が頭を抱えた理由の一つでもあるのだが、実は既に午後十一時を過ぎている。
何かするには遅すぎる時間帯だ。
十五分ほど経って、玄関のチャイムが鳴る。
ドアを開けると、そこにはコートも着ずに紙袋だけを抱えたまゆさんが居た。
「あのね、ちょっと急いでて……」
表情で、僕の言いたいことがわかったのだろう。
僕が何か言う前に、まゆさんは自分から言い訳をした。
「とりあえず中に入ってください。また風邪を引きますよ」
彼女を部屋の中に招き入れ、僕はお湯を沸かす為に狭い台所に立った。
「今日はどうしたんですか?」
紅茶を入れたカップを渡しながら尋ねる。
僕が知る限り、まゆさんは他人を巻き込んで突然行動を起こすタイプではない。
それが今日に限って、この行動。
何かあったのだろうか。
「えっと、大したことじゃないんだけど、今日じゃなきゃ意味が無いっていうか……。これ、受け取って貰える?」
ずっと抱えていた紙袋から、箱を一つ取り出す。
「開けても良いですか?」
断りを入れてから、箱の蓋を開く。
そこに現われたのは、見事なガトー・オ・ショコラ。
「急いでたからちょっと不恰好になっちゃったけど……」
そう謙遜するものの、出来栄えは店頭に並んでいるものと何ら遜色無い。
「でもね、味の方は学校の先生も認めてくれてるし、それで……」
頬をほのかに染めて、言葉を紡ぐ。
「一ヶ月遅れのバレンタインってことで」
今日は、三月十四日。
世間で言うところのホワイトデー。
僕は思わず言葉を詰まらせた。
「……ありがとうございます、本当に」
「セイって、甘いの平気だよね。生ものだし、なるべく早めに食べた方が良いんじゃないかと」
「なら、今、頂きます。切ってきますから、まゆさんも一緒に」
包丁で切り分け、白いお皿に移す。
一人分にカットすると、本当に売り物の様にしっかり作られているのがわかる。
前に持ってきてくれたアップルパイも美味しかったし、今回のガトー・オ・ショコラにも相当期待が持てそうだ。
僕は特別甘いものが好きなわけではないが、彼女の作ったものならいくらでも食べれそうな気がする。
「バレンタインが三月ということは、ホワイトデーは四月ですかね」
思わず独り言が零れる。
「……セイ、どうかした?」
「いえ。ケーキ、頂きます」
フォークでケーキを口に運ぶ。
それはとても、とても甘かった。
「美味しいです」という僕の言葉に、まゆさんは嬉しそうに微笑んだ。
その夜に交わしたキスは、甘いチョコレートの味がした。